見出し画像

【山梨県立博物館】シンボル展「帰ってきた 芳年の道祖神祭り幕絵」を見に行く

はじめに

 山梨県立博物館にて、シンボル展「帰ってきた 芳年の道祖神祭り幕絵~往時の姿 今甦る」(2024.1.20~2.19)が始まりました。
 甲府城下では、明治時代の初めまで小正月の行事として道祖神祭りが行われていました。甲府道祖神祭りの名物は浮世絵師らにより幕絵であり、数百枚の幕絵で町の通りが彩られたと記録にあります。
 しかし現存する幕絵は3枚のみです。そのうちの1枚である月岡芳年による太閤記の幕絵が修理を経て帰ってきました。この幕絵をお披露目するともに一堂に3枚を展示するものです。

エントランスロビーのタペストリー

帰ってきた 芳年の道祖神祭り幕絵

 甲府道祖神祭の幕絵とは、縦2メートル、横10メートルにもなる布に絵を描いたものです。現存する3枚については、紆余曲折を経て現在はこちらの博物館に収蔵されています。また、県の指定文化財に指定されています。
 今回修復を経て、帰ってきたのは、浮世絵師月岡芳年による甲府道祖神祭幕絵 「太閤記 佐久間盛政 羽柴秀吉を狙ふ」です。令和3年より、東京都内の美術品修復業者に依頼し修理が行われていたものです。

幕絵より、羽柴秀吉(右上)と佐久間盛政(左下)
裏面には現存3枚の幕絵を掲載

第1章 甲府城下の道祖神祭り

 かつて甲府城下における小正月の行事として道祖神祭りが盛大に行われていました。名物は縦2メートル、横10メートルにもなる布に描いた幕絵を表通りに飾っていました。こうした幕絵を広げる祭りは、ほかに例がありません。そうした祭りの背景として、甲府の城下は地下に甲府上水が引かれており、祭りで重量のある山車を曳くことを避けたことによるものだとといいます。
 各町ごとにテーマに沿った連作の幕絵を数十枚ずつ持っていたといいます。全体では数百枚です。物語などで彩られた通りは壮観でさぞ賑やかだったと想像します。
 展示室の撮影は出来ませんが、公式X(旧ツイッター)に幕絵の大きさがイメージできる画像がありました。

会場の「幕絵」の展示の様子 出典 : 山梨県立博物館公式 X

(1-1)商家と道祖神祭り

 各町では財力のある商家が「幕世話人」として浮世絵師らを甲府に呼び寄せ幕絵を製作させたといいます。甲府は江戸から比較的近いため浮世絵師たちを呼び滞在費用もすべて出して幕絵を描かせています。
 下記画像は、霞江庵翠風『甲州道中記』(ただし大正期の写本)ですが、道祖神祭りの様子がスケッチされており、幕絵らしきものが横に並んでいるのが分かります。

霞江庵翠風『甲州道中記』(写本) 1915年(大正4年) 原本 : 1866年(慶応2年)
出典 : 本展リーフレット

 また、画像は用意できませんでしたが「道祖神祝儀並に諸入用永代帳」は、八日町一丁目の1780年~1827年(安永9年~文政10年)までの各年の収支・用具の管理先一覧・負担金の割合・飾り類作成のための材料などを書き留めたもので、祭りを知るうえでの貴重な記録です。

(1-2)広重による幕絵

 現存し展示されている幕絵ですが、1枚目は、緑町一丁目(現在の甲府市若松町)のものです。
 当時人気だった浮世絵師初代歌川広重(1797年~1858年、寛政9年~安政5年)によるもので、《東都名所 目黒不動之滝》は、1841年(天保12年)11月に完成させた「東都名所」11枚のうちの1枚です。

歌川広重《東都名所 目黒不動之滝》1841年 出典 : 本展リーフレット
《東都名所 目黒不動之滝》部分
出典 : 山梨県立博物館HP

(1-3)二代広重による幕絵

 2枚目は「東都名所」が破損したことにより二代歌川広重(1826年~1869年、文政9年~明治2年)が補筆したものです。《東都名所 洲崎潮干狩》1864年頃(元治元年頃)のものです。
 歌川広重による緑町一丁目の幕絵は11枚あることになりますが、現存はこれら2枚ということになります。

二代歌川広重《東都名所 洲崎潮干狩》1864年頃 出典 : 本展リーフレット
《東都名所 洲崎潮干狩》部分
出典 : 山梨県立博物館HP

 緑町一丁目は現在の甲府市若松町です。歌川広重の「東都名所」の幕絵が飾られたといわれる場所は左の「信玄餅 金精軒」のビルのあるところです。

甲府市若松町(遊亀通り) 出典 : Wikipedia 甲府道祖神祭礼

(1-4)広重の下絵「東海道五十三次」

 展示には、歌川広重作と伝わる「東海道五十三次画稿」も展示されています。柳町三丁目の幕絵「東海道五十三次」の下絵であるといいます。残念ながら下絵のみで幕絵は現存していません。
 「東海道五十三次画巻」 は4巻に20枚の下絵が描かれたものです。
 そして「東海道五十三次画巻」にはもう一組あります。バラで39枚のものです。京都三条大橋から江戸日本橋までの55駅を39枚の画面に構成しています。ガラスケースにすべて展示してあるため、見ごたえがあります。 
 「東海道五十三次」をテーマにした下絵が2組あるということは、発注した柳町三丁目の「幕世話人」に見せてどちらを採用するか選んでもらったのではと考えられるといいます。

歌川広重《東海道五十三次画稿》
出典 : 山梨県立博物館HP

 《諸国祭礼尽双六》は、歌川広重が各地の祭りを描いた大判の錦絵です。左側下のコマに甲府城下の道祖神祭りがあります。1843年~1846年(天保14年~弘化3年)のものといいますので、幕絵を描くため招かれ甲府に滞在した2年後のものといいます。広重の中に甲府の道祖神祭りが強く印象にあったのではといいます。

歌川広重《諸国祭礼尽双六》1843年~1846年(天保14年~弘化3年)
出典 : 本展チラシ

(1-5)道祖神祭りの終焉

 盛大に行われていた甲府城下の道祖神祭りでしたが、1872年(明治5年)11月、県令土肥実匡により「道祖神祭礼取締どうそじんさいれいとりしまり」の通達が出され廃止させられました。
 神道の国教化を目指す明治政府の意向によるもので、甲府城下の道祖神は神社に合祀されてなくなりました。他にも多くの地域で伝統行事が廃止に追い込まれました。多くの幕絵は転売転用されました。
 展示には、道祖神祭り禁止令が出たことを伝える「峡中こうちゅう新聞第4号」1872年(明治5年)があります。この時代の新聞は小倉半紙二つ折り8枚綴りの冊子でした。峡中新聞は第8号まで発行されています。

「峡中新聞」 第4号
出典 : 山梨県立博物館HP

第2章 芳年の甲府道祖神祭幕絵

 今回の展示の中心である、3枚目の幕絵「太閤記 佐久間盛政 羽柴秀吉を狙ふ」です。月岡芳年が柳町四丁目の幕絵として「太閤記」題材に描いたもののうちの1枚です。この幕絵は1976年(昭和51年)に美術評論家瀬木慎一(1931年~2011年、昭和6年~平成23年)によって発見されるまで所在不明になっていました。
 幕絵の飾られた柳町四丁目ですが、画像を再掲しますが、少し向こうに見える薄茶色の高層マンションの辺りです。

甲府市若松町(遊亀通り) 出典 : Wikipedia 甲府道祖神祭礼

(2-1)月岡芳年

 月岡芳年は(1839年~1892年、天保十年~明治25年)は、新橋の商家に生まれました。11歳で浮世絵師歌川国芳(1797年~1861年)に入門しています。1860年(安政元年)頃から活発な作画活躍が見られるようになり、役者絵や武者絵などを幕末期の世相を取り入れ制作しますが、繊細な筆遣いから描き出される場面は時に怪奇的で残虐な場面描写もあり「血みどろ絵」とまで称されることもありました。54歳で亡くなりますが明治時代にも錦絵を多く残しています。

月岡芳年 出典 : 近代日本人の肖像

(2-2)芳年の幕絵

 今回修復が終わり、帰ってきた月岡芳年の甲府道祖神祭幕絵 「太閤記 佐久間盛政 羽柴秀吉を狙ふ」は、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の合戦の一場面です。秀吉が勝家の甥である佐久間盛政と対峙しているところを描いています。

月岡芳年《太閤記 佐久間盛政 羽柴秀吉を狙ふ》1864年頃(元治元年頃)

 2020年(令和2年)にもこちらの博物館で展示しているのですが、痛みがひどく幕絵本来の吊るして展示はできませんでした。ケースの中に広げて見せる形しかとれなかったといいます。修理によって往時の姿がよみがえった芳年の幕絵です。

 さて、下記画像は幕絵はリーフレットより左右を分けてキャプションしました。
 左側部分は馬上の佐久間盛政が槍を持ち突進する様子が描かれています。

左側部分 出典 : 本展リーフレット

 右側部分の馬上の男が羽柴秀吉です。
 画像の赤丸のA~Cは物見の穴といって陣の内側から外の様子を確認するためののぞき穴です。そもそも幕絵は戦の時に本陣に張る陣幕の作法にのっとって作られています。そのためのぞき穴が作られているのです。陣幕の作法にの理由は悪いものが入ってこないようにという願いによるものです。
 ①と②は、後述しますが顔料の調査が行われた顕微鏡写真の位置を示すものです。

右側部分 出典 : 本展リーフレット

(2-3)修理から分かったこと

 今回の修理は東京の文化財修理専門業者の半田九清堂が担当しました。修理から分かったことが何点か紹介されています。

 まず布は麻布で5段に縫い合わされています。他の幕絵でも縫い合わされていたことは同じです。これだ大きな一枚の麻布がないためです。しかし、この幕絵は、見ると上3段分と下2段分は色が明らかに異なります。別の麻布を持ってきいます。とくに故意に行ったのではなく、用意したものが足りなくなったため異なる麻布を貼り合わせたと考えているそうです。
 また、布の一番下に土の汚れが確認できたことから幕絵が実際に外で吊るされたことは間違いないといいます。
 また、竿などを通す部分を乳といいますが、右端の乳には「三拾」とあり、飾る場所、あるいは幕絵の数を表していると考えられるそうです。

「三拾」とある乳
出典 : 本展リーフレット

 続いて幕絵に使われていた絵具(顔料)の調査に関する説明があります。
 注目すべき内容は②の緑色の部分の顔料だといいます。「花緑青はなろくしょう」が使われていた可能性が高いといいます。花緑青は十九世紀初めのパリで生産され、その後ドイツで作られた人口顔料です。ヒ素由来の顔料なので現在では危険性が指摘されていて、西洋では壁画を描いていて絵師がヒ素中毒で倒れたとも。しかし、この幕絵に使われている量からは健康への懸念はないそうです。

顔料の拡大、左の画像が「花緑青」 出典 : 本展リーフレット

(2-4)幕絵の模写屏風

 この芳年の幕絵を見事に模写した屏風も展示されています。こちらは、1976年(昭和51年)に日本画家で芳年コレクターとしても有名な西井正氣にしいまさきが借り出し、不眠不休で模写を行ったものです。模写は絵の具の剥落等もそのまま再現する現状模写となっています。
 幕絵の発見が1976年(昭和51年)であることから、それを聞きつけた西井が模写に訪れたのでしょうか。

西井正氣《太閤記 佐久間盛政羽柴秀吉を狙ふ 模写屏風》1976年
出典 : 山梨県立博物館HP

(2-5)芳年の肉筆画

 芳年の肉筆画に関しては現在見つかっている作が二十点ほどでたいへん少ない状況です。そのうちの1枚として《新津清右衛門正光像》1871年(明治4年)頃があります。
 月岡芳年は確認できるだけで甲府(山梨)へ二度訪れています。一度目は、この道祖神祭りの幕絵を制作するためでした。
 二度目に芳年が山梨を訪れたのは明治に入りってからで、その際に描いたとされるのがこの肖像画です。

月岡芳年《新津清右衛門正光像》1871年(明治4年)頃
出典 : 山梨県立博物館HP

 「最後の浮世絵師」とも称される芳年ですが、こちらは信玄公を描いた錦絵が何点かあります。《月百姿 武田信玄》1886年(明治19年)のほか、《川中島大合戦之図》1866年(慶応2年)です。ほかにも信玄公を題材にした錦絵が展示されています。ほかに山梨との関わりとして、新政府軍と新選組による甲州勝沼の戦いを描いた錦絵が展示されています。

月岡芳年《月百姿 武田信玄》1886年
出典 : 山梨県立博物館HP
月岡芳年《川中島大合戦之図》1866年(慶応2年) 出典 : 山田書店HP

第3章 山梨とゆかりのある浮世絵師たち

 最後は、山梨と関わりのある浮世絵師たちを紹介しています。

(3-1)歌川国芳

 まずは、芳年の師匠である歌川国芳(1798年~1861年、寛政9年~文久元年)です。
 国芳は甲府の菓子屋升屋と交流がありました。下記画像は国芳による絵が入った菓子屋升屋の袋です。朱色のイラストにしてあるのは、朱や赤に疫病や邪気を払う意味があるそうです。

「菓子袋」歌川国芳
出典 : 本展リーフレット
「甲府八日町正月初売之景」原画 歌川国芳
出典 : 山梨県立博物館HP

 また、升屋は7代目市川團十郎とも交流があり、画像は用意できませんでしたが、團十郎からの書簡も展示されています。
 升屋ですが、現在でも甲府市丸の内2丁目に升屋の屋号の菓子店が残っています。(2024年1月現在休業中)

(3-2)中沢年章

 芳年の師匠の次に紹介するのは芳年の住み込みの弟子だった人物で、中沢年章(としあき、ねんしょうとも)です。現在の中央市布施の出身です。
 年章の絵が6点ほど展示されています。扇面に描かれた《富岳図扇面》は甲府の豪商大木家にあったもので、他にも初代広重を描いた大木家当主の肖像画があるといい、ここでも財力のあった豪商が絵師の創作に深く関わっていたことが伺える資料だといいます。

中澤年章《富岳図扇面》明治~大正初期
出典 : 本展リーフレット

 しかし中沢年章と聞いて筆者がすぐに気が付いたのは、地方病の予防のための冊子「わしは地方病博士」の絵を描いた人物であることです。
 地方病は甲府盆地で猛威をふるった寄生虫による風土病です。冊子は2万部用意され1917年(大正6年)に県内の小中学校から子供たちに配布されました。地方病の撲滅に一役買った重要な人物なのです。

昭和町風土伝承館杉浦醫院の『俺は地方病の博士だ』の紹介、右端が表紙

 さらに、今回の展示ではありませんが、年章は「若尾逸平一代図屏風」(南アルプス市立美術館蔵)を描いた絵師としても有名です。若尾逸平(1820年~1913年、文政3年~大正2年)は天秤棒ひとつで財をなしたとの逸話のある甲州財閥の筆頭格の人物です。彼の生涯の足跡を20の場面に抜き出して描いたのが中沢年章です。

中澤年章《若尾逸平一代図屏風》大正時代 南アルプス市立美術館蔵
出典 : 山梨県立博物館HP

おわりに

 華やかしころの甲府城下と祭りと幕絵を描く絵師との関わりが見える展示でした。現存する幕絵が3枚と驚くほど少ないのですが、甲府空襲にて焼失した幕絵がだいぶあるのではないかと筆者は思うのです。
 昨今、地方都市の中心部は空洞化が進み、甲府の中心部も賑わいがなくなりましたが、2019年の「甲府開府500年」をきっかけに城下町テーマにした商業施設、甲府城を活性化策などが出てきています。他の地方都市の城下町のように城下町としての認知度が上がり、賑わいが戻ることを期待するものです。

参考資料
山梨県立博物館「シンボル展示 帰ってきた芳年の道祖神幕絵」リーフレット、2024


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?