ゼロからイチへの日誌【8】 作詞(からの訳詞の話)

これは2024年4月27日に開幕する予定の朝ミュージカル東京の新作『ながめせしまに茶の湯でも』のクリエイター目線からの記録です。

ゼロからイチへの日誌【8】 作詞(からの訳詞の話)

2023年9月12日

先日書いた「1場」を整えながら、つづきの「2場」を脳内からPCに出力。7ページ目くらいまで。

曲が1つ入るので、なんとなく歌詞も考えながら進めるとたった2ページ書くのに3時間半くらいかかる。

ここでいう「なんとなく歌詞も考えながら」は、1メロ(歌い始めあたり)だの、1サビ(1番のサビ)だの、「次はブリッジ(曲調or展開変わるとこ)」「次はラストサビ」などと構成を考えつつ、歌詞の言葉数もなんとなくシミュレーションしながら書く。
ので時間を食う。

こういう歌詞の作り方はソングサイクルや今回の作品のように、ある程度ポップス寄りの曲になる場合で、韻を踏みたい曲であることが多い。
そういうのはこの段階でもう韻を含んだ歌詞をある程度つくってしまう。

韻を踏むことに関しては、英語圏の作詞では必須条件みたいなもんだが、日本語文化では必須ではないので、韻を踏んでも大丈夫な曲かどうかの判断をどこかでしている。

「踏んでも大丈夫か」というのは、韻を踏むのを優先して言葉の意味や脈絡は二の次になることが英語圏の作詞にはみられるのだが、
それぐらいあっちでは韻が必須だと、あっちに住んでるクリエイターの友人(ハンガリー人)が言っていた。

これは訳詞する時にも通用する。
原詞をみて、「あーこれ言葉優先で意味が二の次パターンだな」とわかれば、じゃあ日本語訳もそのパターンを踏襲するねって思って訳している。

なので、韻が必須じゃない日本語ミュージカルの作詞において私は「物語性」と「エンタメ性」を天秤にかけて舵をきっているということになる。
「エンタメ性」が強い歌だと韻を踏むのを優先して、歌詞もあんぽんたんになったりする。
「物語性」が強い歌だと私は韻を踏まないことが多い、つまり耳のリズムより心のリズムを優先している。

参考までに自作の「エンタメ性重視の歌詞」と「物語性重視の歌詞」を貼っとくので、よければお時間あるときにでもどうぞ。

1.エンタメ重視『プロパガンダ・コクピット』の「骨を埋めろ」


2.物語重視『雲母紙鳶 KIRANOTOBI』の「君は絵師になれない」

ほんでだよ、今回の新作は韻を踏んでる曲がすごく多いんだ。
あんぽんたん系なのか…?

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