見出し画像

那智に行きたい

「滝が見たいな」

 きっかけは、そんな思い付きだった。

 海でも山でもなく、滝が見たい。

 どうどうと流れ落ちる水が見たい。

 思い付きは、なかなか消えてくれなかった。

 最初に行先として思いついたのは、河津の七滝だった。

 伊豆の方は、子供のころに家族旅行や学校行事でよく行った先だったが、最近はご無沙汰だ。大きさも名前も違う滝を眺めながらぶらぶらと歩きたい。そして、温泉でも入ってのんびりしたい。

 しかし、「伊豆に行きたいなあ」と食事の席でもらした私の言葉は、母に一蹴された。

「つまらないわよ」

 散々行ったじゃない、という思いもこもっていただろうか。

 だが、せっかく「何かをしたい」と思い立ったのを、つぶすような発言はいただけない。

 まったく。

 しかし、この言葉が、行った事のない場所に足をのばすことも選択肢として浮上させるきっかけとなったのも事実だった。

 滝が見ることができて、行った事のない場所。

「……那智に行こう」

 日本一の高さ、水量だというではないか。

 ついでに、古典文学などで出てくる「熊野」にも行ってみたい。歩いて見たい。

 早速、仕事帰りに旅行情報を集めるべく、JR東海ツアーズを訊ねた。

 しかし、この時まで私は和歌山のわの字すら考えた事が無かった。

 和歌山といえば、梅干しとミカン船くらいしか思いつかない、というレベルの無知ぶりだった。

 本当なら那智に泊まりたいと考えていたのだが、どうもパックのプランでは宿がないらしい。

 それが最初の躓きだった。

 車の免許は持ってないので、レンタカーで移動するという選択肢は無い。移動手段は、すべてバスかタクシーか、電車か。

 しかし、バスの本数の少ないこと!

 電車も帰りの時間をチェックした上で、色々考えなければならなかった。

 うーん、こんなはずではなかったのだけど。

 バスの中で腕組みしながら、そんなことを思う。

 だが、メインディッシュの滝は…

「来てよかった!」

 の一言に尽きた。

 空気を胸いっぱいに吸い込みながら、人の手のつかない緑の中を歩くのは心地良かった。時折、白装束のお遍路さんも見かけるのも、普段にはなじみがない光景のためか面白い。

 ここが、千年以上もの昔から「信仰」を集めてきた場所、祈りの地なのか。

 そして、その対象たる滝は何と大きく清々しいことだろう。

 千年以上の昔、皇族もわざわざここに参詣に来た、というのもわかる気がした。

 前に立って、どうどうと水の落ちる音を全身で聞く。それだけで余計なものが洗い落とされていくような気がした。

 やはり、こっちにして良かった。

 あの時、思い立つことがなければ、もしかしたらずっと来ないままだったかもしれない。

 縁、というものがあったのだろうか。


 あれから6年。

 今の日本には、外国人観光客が溢れている。

 京都はもちろん、奈良も、浅草も…。日本人よりも多い気がする。

 もう一度熊野にも行きたいが、たぶん人は多いだろう。

 少なくとも前と同じ様ではあるまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?