メディアにおいて、「誰が何をしたのか」を単純に伝えることはできない

 誰が何をして、そしてそこでなされた行動が発信者と聴衆のそれぞれの規範に合致するものかどうか。それを一概に評価できるような単純な世界はとうに過ぎ去っていて、そのことが様々なメディア上のメッセージとコミュニケーションを大変革させていったというお話。

 昨日うpした記事の実践的解説をしようと思っていたが、実例を出すといってもTwitterが落ちていたので、今日はその話題から踏み入った話を。それにしても、「うp」ってもはや死語な気がする。どうなんだろう。

 この記事でも触れたことだが、私の関心は専ら現代のコミュニケーション・メディア、とりわけSNSである。情報伝達手段として以上に、社会的にそれ以上の機能を要請されたメディアとして、従来のメディア論との相違点を探し出すのが面白いのだ。
 従来のメディアにおける情報伝達の方向性というのは、電話で双方向、テレビやラジオといったマス・メディアは一対多数へという一方向という限界があった。SNSは違う。そのような従来のメディアが背負っていた物理的な制約を軽々と越え、様々な方向を行き交う自由闊達なコミュニケーションが実現された──ように見える。
 しかし現実はどうだろうか。我々はあまりにコミュニケーションの自由を礼賛し、副作用を見過ごしていたのではないか。一人が池に石を投げて波紋を発生させると、その波紋を見ていた大勢の観衆が一斉に反応する。これがポジティブな方向性だったら別に影響なんて無視するだけでいいのだが、特に事実誤認によるクソリプや炎上、攻撃というのは、しばしばそうしたSNSコミュニケーションの自由化によってもたらされた副作用だと言える。

 何かを伝達する対象が一個人やムラ的なコミュニティから多数の聴衆に変わった瞬間から、実はこの問題は大きく横たわっていたのだろう。
 というのは、実は、基本的にメディアを通して「誰が何をしたのか」ということを一人の目線では正しく記述し発信することは全く出来ないのだ。フィクションにおける「神の目」を持つ小説家のような全知全能的な立ち位置なら、そういうことに悩まずに済むのだけど。
 ひとまず、頭を整理するためにもいくらかのフェーズに分けて、複雑性を解説していく。なお、この事例はフィクションであり、実在する/したものではない。

フェーズ1:もっとも単純な構図(インターネット・ミームを除く)
 「犬が人を噛みました
 これが人に情報を伝える上でもっとも単純な(主語・述語・目的語の揃った)文章といえる。これより短いインターネット上の定番用語(インターネット・ミーム)だとコンテクストを必要とするし、ここから内容が増えると当然情報量・複雑度は上がっていくのだ。
 これで、とりあえず犬が人を噛んだことは誰にでも伝わる。しかし、くっついてくる細かい情報はかなり捨てられた状態だ。どこで、いつ、誰が、どのように? こうした情報を付け足していく。

フェーズ2:場所・時系列・程度を記述した形態
 「きょう午後4時頃、〇〇県××市で野犬が小学6年生の男の子を噛み、男の子は軽傷を負いました
 ニュースっぽくなってきた。マス・メディアの情報伝達は(ストレートなら)このフェーズだ。情報量は上がったが、要は先と同じ「犬が人を噛みました」と同じことだ。しかしその文章と比べると、個別具体の事象の再現度、つまりその現場で起きたシチュエーションの記述度は間違いなく上がっている。ここから付属情報をさらにくっつけて情報の精細度を上げても、間違いなく同じように最重要部分は必ず伝わるようになる。
 しかし、SNSにおけるコミュニケーションは、こういった杓子定規的な伝達よりも、使い手による情報の拡散での伝達に重きを置くところが大きい。伝言ゲームによって元の伝達者から雪だるま式に拡散者の意図がくっついてきて、いよいよSNSっぽくなってくる。
 なお、このフェーズで取材ミスや捉え間違い、あるいは発信者の都合で何かボタンの掛け違いが起こると、まずこの段階でおかしくなり、次のフェーズで一気に崩れる。間違った情報をマスメディアが提示することの重大さが実はこういう点で増してきているとも言えそうだ。

フェーズ3:発信者の意図を越えて
 「犬が飼い主から離れて他人を噛むなんて、飼い主の管理が全くなっていない。管理できないなら飼うな! 軽傷だからまだ良かったけど、傷が原因で……以下云々かんぬん
 何もそこまでは言ってないし、そんなことまでは起こっていないし、現実に起こった現象なので嘘はついてないけど、あまりに自らの発信の正確性を過信して自らの立場を表明する内容になっている。
 こうしたメッセージの生まれるところにメディアあり。伝達ツールがマスメディア的な一方向から、拡散を軸にした原始的な口コミ型多方向となり、価値観の異なりなどで情報の取捨選択をしてきたことで伝達の結果が異なる者同士が対立し合う原因となっていった。
 たとえば、右派的な情報を好めば右派的な内容を経由して、左派的な内容を好めば左派的な内容を経由して伝達される可能性が高くなるから、結果的に受け取る意見やニュースも違う、と。その両者は価値観からして結構違うので、あることの善悪から何から大変な対立を乗り越える必要があり、私たちはしばしばそのコストを払うという余力を用いたくないがゆえに対立を避ける。
 にしても、伝言ゲームでマジの喧嘩になるかもしれないなんて、マクルーハンも困惑しそうな話だなオイ。

 さて、この場合、情報の流れをフェーズを追ってみると、現場(フェーズ1)→マスメディア(フェーズ2)→SNS(フェーズ3)になっている。このとき、フェーズが進むにつれ情報の広がりは広くなり、SNS上の伝言ゲームにおける参加者(つまりユーザー)の価値観の乖離は激しくなる
 だが現代、現場から聴衆に伝わるプロセスにおいて、SNSとマスメディアはしばしば入れ替わる。
 SNSが現場を直接的に描写して、それをマスメディアが後追いで再提示する。このことの意味は何なのか?
 単に「SNSのカオスをメディアがまとめて発信する」ことではなく、「視聴者側の情報に含まれる視聴者=『彼ら』の価値観を捨て、新たにマスメディア側=『私たち』の価値観をつけ直す」ことである。視聴者側が提供した映像をメディアが伝えるときに、よくその話題を視聴者の映像やツイートの反応を材料に再構成・再構築していることが、端的にこの現象を表している。
 このことは、本来共存するはずのマスメディアとSNSを対立構造に位置づけるときに、重要な要素となっている。SNS側はマスメディア=『彼ら』が『私たち』の意見を変化させて伝えたという不信感を、マスメディアはSNS=『彼ら』の意見は『私たち』の意見を構成する一要素であるという認識を持っていて、それがメディア間のすれ違いを促進している。
 こうしたことは、「あれ? さっきも見たんじゃない?」というわけで、これは上記フェーズ3「価値観の異なりなどで情報の取捨選択をしてきたことで伝達の結果が異なる者同士が対立し合う」と同じことが結局起こっているわけだ。やれやれ。

 メディアをメッセージが横断するとき、メディア形式によってメッセージが変化していき、ひいてはそのことでコミュニケーションが大きく促進されたり阻害されたりする。
 「誰が何をしたのか」を変化させることなく伝えることは、リアルタイムで変化する現代のメディア環境ではもうほとんど不可能だろう。その中でしかし、人の価値観を経由して自分にやってきた意見は果たして誰と対立するものかを気にして生きていくほど余裕はない。この挟み撃ちこそが私の抱える不満である。
 ストレス社会における自己防衛として情報の取捨選択をした結果、むしろ社会の断絶が深まる。他者への関心が弱まる。新しいメディアが登場し、コミュニケーションの自由化が進んだ結果が専門分化=ファンコミュニティの深化価値観の否定による社会の分層化とはなんとも皮肉だ。こうしたことを解決できる特効薬はないかもしれない。少なくとも、頭の固い私には思いつきそうもないことである。

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