SNSは他者との壁を厚くしたか、薄くしたか/メディアの捉え方の変化

 かつて、メディア論の開拓者ことマーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と述べた。ならば、マクルーハン亡き現代、インターネットの中のコミュニケーションにSNSはどのような影響を与えたのか。

 そもそも、この記事を読む人は、マクルーハンという人を知っているだろうか。たぶん、知らない人のほうが多いと思う。活躍していたのは今から60年ほど前だし、言ってることも何を言ってるか分からないので、今でもああでもないこうでもないと学者の中でも言われているとか言われてないとか。
 まあ、とにかく彼は言った、「メディアはメッセージである」と。
 メディアの形式──新聞、テレビ、ラジオ、そして現代のインターネット──が、伝達する内容自体を規定していき、またメディア自身も伝達される内容を含んでいる、と彼は示した。たとえば、新聞が野球を伝えるのと、テレビが野球を伝えるのと、詩歌が野球を表現するのは全く違うが、それはメッセージの内容というより、メディアの違いに起因するものだと。
 マクルーハンがそのような認識をひとつの著作にまとめた時代は、テレビの時代である。テレビという、視覚のみならず聴覚など感覚機能の拡張を果たした新時代のメディアを目の前にして、彼は確かに先進的なアイディアを提示した。だが、マクルーハンが提示した難解な概観(「ホット/クールなメディア」なんてのは、一言では到底語り尽くせない。ググってもらったほうが僕よりよっぽど分かりやすい)は、直接、直接的な相互の関わり合いが発生する現代のSNSのメディアに適用することは、果たして出来るのだろうか?
 より簡単に述べるなら、他者との関わり合い方に本当はSNSが影響を及ぼしているのではないか? と思えて仕方ないのだ。

 マクルーハンは、聴覚(話し言葉)、文字(書き言葉)、印刷物、そして電子メディア(テレビ・ラジオを指した)について角度をつけて探求していた。しかしインターネット以前/以後というのでは、ちょっとまた変化している点がありそうだ。それは先述したような「直接的な相互の関わり合い」に潜む、メッセージの非対称性だ。
 電話で何かを伝達すること、その元々は話し言葉=聴覚機能の範囲を拡張したメディア形態だが、その拡張をさらに視覚機能にもう一度復帰させ、世界全域にまたがるコミュニケーションの手段として用いさせたのがインターネット上の掲示板・SNS文化の結果になる。しかし、SNSが作った拡張は、それだけなのか。

 ある種のSNSには、場所の他に、接触人数や時間の制限がない。人間の感覚機能の限界を超越するコミュニケーション──聖徳太子でも出来ない同時間帯の一対多数の相互交流など──は、こうしたことから生まれうる。SNSの中でもこの度合いは非常に異なるが、LINEは非常に個室的・電話的な今までのコミュニケーションスタイルに近く、Twitterはこの人間の「物理的な」感覚の超越の度合いが高い(なお、Facebookはやや特殊で、コミュニケーション空間を自分たちで設定することが出来るために分析の困難な面はあろう)。
 こうなると、こうしたメディアでメッセージを送る/送られる主体はそのSNSを用いる全員であり、とくに個別間のコミュニケーションならば相互が主体であり客体だ。面倒くさい言葉を使ってしまった。要は、あるメッセージがあるとして、その言葉を向ける相手はそのSNSを使う相手全員だし、その言葉を全世界に放つ主体に自分もなる可能性が高い世界こそが、SNSの世界である。
 であれば、このインターネット上のメディアとは、もはやマクルーハンが想定した「グローバルヴィレッジ」的な、同時に全ての世界へ同じ出来事が伝えられるメディアなどではない。そのようなマス・メディアであれば、メッセージの非対称性はマス・メディアと視聴者の間にしか起こり得なかったが、今日の私達には日々の表現伝達にこうした情報の非対称性がいつ、どこで、どんな形で起きてもおかしくない。

 いや待て、情報の非対称性って何やねん。
 情報の非対称性について説明するために、非常に私にとって卑近な例で恐縮だが、学生とゼミ教授の関係性で解説すると、学生はゼミ教授のことを授業を取っていたりして知っている(つもり、ということが往々にしてあるけれど)が、教授はゼミにやって来る人間を志望理由を読むまで知らない──完全に知らないことはなくとも、顔と名前が一致する人間は稀にしかいないはず。このように、一方に情報が偏っていて、それが行動やコミュニケーションに有利不利を生むこと情報の非対称性というのである。
 今の社会で起きる軋轢のほんの少しの現象はこうしたSNS時代特有の「発信することによる情報の非対称性」によって他者とのコミュニケーションに問題が生じ、相手との関わり合いに壁を作る、もしくは相手がそのように作った壁を壊してテリトリーに殴り込んでくる、と説明できよう。
 抽象的な一例を挙げてみる。誰のために誰が何をしたのか、そして誰がそれを詳らかにするのか。近頃の社会現象、とりわけ政治の世界・放送の世界では、こういう「誰」の部分の複雑性が増した。この「誰が何をしたのか」というパーツは、伝言ゲームにより捏ねくり回されて本来の意図から意味が離れていくことによって、本来送り手が持っていた情報の優位性が逆転して、もはや「デマゴーグだ」「いやこれが真実だ」といった具合に揉めるのである。
 こうした現象が起きている以上、自己防衛すら要請される他者とのムラ的な関わり合いは、本質的で社会的な関わり合いを排することでしか期待できない。それがいわゆるSNSにおけるファンコミュニティである。ここにだけは、「無闇にセンシティブな話題に触れない」という制限はつくものの、微かに他者との関わり合いは成立しうる。それが幸せなのかは、正直に言うと私たちには全く俯瞰の出来ないことだから分からないが、兎にも角にも、そういう壁の厚い保護された空間にしか情報の対称性は保たれなかったのである。一方で、SNSでの全くの他者とのコミュニケーションは、危険回避のために遠ざけられていくことになる。

 このようなコミュニケーションの成り立ち方は、絶対にSNSなくしてありえない。その点では、なるほど、「メディアはメッセージ」だ。しかし、マクルーハンが生きたテレビの時代から、さらにコミュニケーションの方法が大きく変化した現在、他者との関わり合いについて十分な検討をマクルーハンは重ねていたのか、という疑問が出てくる(正直、彼の話には教育の話題が多かったが)。この疑問については、彼の著作をさらに読むことで解決できるかもしれないので、ここでは一旦置いておく。
 むしろ重要なのは、私を含めたSNS利用者自身が、SNSを相対的に位置づけていることである。どこに? それは、マクルーハンが電子メディアを旧来のメディア=印刷物や書き言葉(特に、教育の面で)と対比させたのと同じように、私たちは、SNSを旧来の電子メディア(何度も言うようだが、これはテレビとラジオだ)と対比させて位置づけているのだ。テレビメディアの不自由性・旧態依然とした体質・劣った速報性………。SNSというメディアの中にいるはずの私たち自身が、メタ的に、そのメディアを位置づけることの奇妙さ。
 そのことが何を生むのかというと、実はそのメディアが前時代のメディアを内包し強化していく、という事例もあるのに、私たちは中から相対的にSNSのことを捉えているせいで、それに気づかない可能性がある、といった具合のことだ。たとえば、テレビメディアはレコードや書き言葉を衰退させど否定せず、むしろ新しく定義し捉え直し、利用した。SNSにも、テレビメディアを再定義し、利用してきた面があるはずだ。更に言えば、メディアの捉え方が変容していくのならば、SNSもまた古代のメディアとなり、新たなメディアに内側から定義されていくことになるのだろう。そのとき、ボロボロの古典となっていくだろうマクルーハンの言葉は、今のように理解されうるのだろうか。コミュニケーションの成り立ち方も全く異なりそうだ。
 ただ、少なくとも言えるのは、今の若い世代はマクルーハンが見ることの出来なかった、全く新しいメディアが当たり前になった未来の世代であり、そのことは過去を以て解説することは十分でないことだけだろう。それはきっとこれからも変わらない。

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