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照心

この言葉を墓参りのたびに見てましたが、祖母が書いたものらしく、教えてくれたんですが、帰ったら忘れてしまったので、ちょっと調べてみました。
そして、ちゃんと残しておこうと思ったので記事にしてみます。
なお、記事の内容は、私個人の理解で書いていますので、認識違いなどが多分にあるかもしれません。そんなときは、優しく教えていただけると助かります。


心照古教

検索するとまず出てくるのが「古教照心 心照古教
古教照心は受け身の学習(古教=仏典、先人の教え に心を照らす⇒教えが個人の理解を形成する)、心照古教は積極的な学習(自ら学ぼうとすることで教えを照らす)という比較でもって、心照古教のほうがいいだよという論調が目につきました。

古教照心の理解

そもそも、「古教照心」は、曹洞宗の文献にでてくる言葉で道元禅師の言葉と考えられるのに対して、「心照古教」は臨済宗の虎関禅師が「古教照心」の後につけた言葉だと思うんです。

心照古教を説明するサイトに書いてあるように、ただ本を「なるほど!」と読む(古教照心)ように機械的に知識を受動的に受け取るのではなく、自分で考え、主体的に本読む(心照古教)ように、何度も読んだり、深く考察をしながら読むことが大事で、さらに言えば、実践してこそ生きた知識となるんだ!(活学とかの文脈)というのは、全面的に同意なんですが、古教照心を引き合いに出さなくてもいいじゃない?とか思うわけです。

私の理解は、古教照心とは曹洞宗の教えにある言葉で、教えや祖師の言葉を通じて、自己の心に照らして、内省と修行の方向性を修正することであり、決して、単に本を読んで「なるほど」と思うことではない無いんじゃないかと思うんです。
曹洞宗の文献にある古教照心が説明されている個所を見ると分かります。

この用語の典拠は、僧肇『宝蔵論』であるとされる。古教は仏典や祖録のこと。照心は自心に返照すること。仏祖の言葉を読み込むことで自らの心を反省して、修行の方向性を修正すること。類似語に「照古観今」など。
堂のうちにて、たとひ禅冊なりとも文字をみるべからず、堂にしては究理弁道すべし。明窓にむかふては古教照心すべし。寸陰すつることなかれ、専一に功夫すべし。 『重雲堂式』

具体的には「衆寮」がその学びの場所といえる。
寮中、応に大乗経、並びに祖宗の語句を看て、自ら古教照心の家訓に合すべし。 『衆寮箴規』

また、以下のようにいわれることもある。
たとひ、仮字書にても古賢の書を常によめば、をのづから我を教ふるなり。古教照心といへるは、この意なり。 面山瑞方禅師『受食五観訓蒙』「二忖己徳行全欠応供」項

つらつら日暮らしWiki〈曹洞禅・仏教関連用語集〉

つまり、『重雲堂式』では、禅冊を読むことの重要性が説かれており、学びを深めるために古教照心することが強調されています。『衆寮箴規』では、共同生活を送る場所(衆寮)で大乗経や祖宗の語句を読み、古教照心の家訓に従うことが述べられています。そして、『受食五観訓蒙』では、古賢の書を常に読むことで、自らを教えるという意味で古教照心という言葉が使われています。

さらに曹洞宗の坐禅の教えをよりどころとする宗教で、その中で禅については以下のように説明されています。

禅とは物事の真実の姿、あり方を見極めて、これに正しく対応していく心のはたらきを調えることを指します。そして坐ることによって身体を安定させ、心を集中させることで身・息・心の調和をはかります。

曹洞宗ネット
https://www.sotozen-net.or.jp/propagation/zazentop

また、道元禅師は「坐禅だけではなくすべての日常行為に坐禅と同じ価値を見いだし、禅の修行として行うこと」と説いています。

ここで古教照心を改めてみてみると、受動的に教えを学ぶというのではなく、日々の生活の中で、古教に触れ自身の心が照らされていくとを感じ、物事の真実の姿、あり方を見極める心を育てていくことが大事なんだということだと思うわけです。

現代解釈による変化

解釈による違いがあるのは、それぞれの人生におけるいろいろな違いによって生まれてくるものだと思うので、違いがあること自体は問題じゃない、むしろ違いはあって然るべき。
問題は、優劣をつけるようなことではないことに優劣をつけてしまうことなんだと思います。
二項対立とまではいわないですが、右じゃないから左みたいな感じが、とても勿体ない。上や下、斜め右などがあってもいいわけだし、いっそ、別次元の軸が増えてもいいわけです。

これからの日常生活の中で、思考停止にならずに、古教照心をしていきたいと思います。

カスタマーサクセスの必要性と、トークンエコノミーな未来におけるコミュニティのあり方を考えます。ってだけではないですが、ざっくばらんに気になったことnoteします