見出し画像

あなたのお仕事の役に立つかしら?(別居嫁介護日誌 #53)

結婚してから毎年お正月になると、夫の実家に行くようになった。

「面倒くさい」と渋る夫に、「さすがに正月ぐらいは顔を出さないと、気まずいよ」と説得した。“いい嫁”であろうという意識が多少は働いたのか。でも、その割には、手みやげ一つ持たずに「あけましておめでとうございまーす」とお邪魔し、出されたおせちをパクパクと食べ、「ごちそうさまでしたー」と帰ってくるだけだった。いや、姪や義姉、義母と一緒に百人一首をやったりもした。

義母は百人一首がめちゃくちゃ強かった。「女学生の頃から得意だった」と言っていた気がする。私も百人一首が大好き。高校生の頃、『田辺聖子の小倉百人一首』を読み、ハマった。

「逢ひみての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり」(権中納言敦忠)
わかる~~~!!! と高校、大学の友人たちと盛り上がったものである。

その真価が問われるときがやってきた。夫の実家というアウェイ感も何のその。札を獲って獲って、獲りまくったけど、義母にはかなわなかった。ときどき、勝てることもあった。

「もう1回、勝負しましょう」
義母は勝っても負けても、うれしそうに言った。ふたりの姪(義姉の娘)はとてもいい子たちで、いやな顔ひとつせずにつきあってくれた。オット氏はあきれたような顔で笑いながら、義父や義兄と杯を重ねていた。

最後に百人一首をやったのは何年前だったのだろうか。記憶があいまいで、思い出せない。いつの頃からか、お正月の集まりが外食になった。

「準備が大変になっちゃったの」と義母は言っていた。私は何の疑問も持たず、たしかに何人もが押しかけると大変だし、外食のほうがこちらも気楽でいいと喜んでいた。歳をとって億劫になっただけなのか、それとも少しずつ水面下で何かが起きていたのか、今となってはわからない。

それ以降も、わたしと義父母の距離感は変わらず、年に一度会うか会わないか。いや、一度だけ一緒に「くろぎ」で食事をしたことがある。当時はまだ、比較的リーズナブルに会食を楽しめた時期だったような気がするけど、これまた記憶がさだかではない。

あれは、義父の快気祝いだったか。それとも義母のお誕生日祝い……? そんなことも覚えていないぐらい、適当なつきあいだった。そして、それを許されていた。

「うちの息子はね、根は悪い子じゃないと思うんだけど、20代の頃は何か音楽をやっていたらしくて、家にも寄りつかなくて……。でも、結婚してからまっとうになったの」

介護が始まってしばらく経ってから、義母がそんな風に言っていたとヘルパーさんに聞いた。義母が思い描く、「その日暮らしのバンドマンからの更生…!」の物語にじつは、私はほとんど関与しておらず、知り合ったときにはオット氏はすでに先輩ライターだったし、時々友だちとバンドもやっていた。

私がしたことといえば、冒頭に書いた「正月ぐらい顔を出そう」と説得した程度だ。でも、それがはからずも、介護に役に立つことになった。人生、何が起きるかわからんなと思う。

25歳でライターになった頃、「30歳になるまでに専門を決めて、単著を書かないと、この業界で生きていくのは難しいよ」とアドバイスされた。

30代になって、共著で女性の建前・本音を解説する書籍を何冊か。ビジネス書や実用書、レシピ本など、雑多なジャンルの書籍やムックに裏方としてかかわってもきたけれど、単著はないまま、40代に突入した。

そして今日、初めての単著『子育てとばして介護かよ』が発売の日を迎えた。

夫には介護が始まった頃から、いつか…というか、すみやかに介護体験記を書くよう、言われていた。そして、義父も義母もなぜか、私が介護について書くことを後押ししてくれていた。

日帰りで施設に行き、リハビリやレクリエーションに参加しながら1日を過ごす「デイケア」(通所リハビリテーション)通いが始まったとき、義母は繰り返し、「行きたくない」とごねた。でも、その一方で、「あなたのお仕事の役に立つかしら?」と言いながら、施設で知り合った同世代の女性たちとのおしゃべりの内容を事細かに教えてくれた。嫁姑の苦労話、施設に来ることになったいきさつ、夫婦ゲンカの理由……etc。

義父からも時折、「何か仕事の役に立てそうですか?」と聞かれた。真意がわからないまま、「勉強になっています!」と答えると、満足そうに笑い、「機会があったら、どんどん書いてください」と言われるのが常だった。
さらには義姉からも「あなたの経験を世の中に発信して、社会に役立ててほしい」と言われていた。ここまでくると、もう何がなんだかよくわからない。

どうも奇妙な一家にかかわってしまったような気がしてならない。でも、おかげで好きなように書くことができた。書き始める前は、実名で書くことで保身が働いて筆が鈍ったりすると困るな……などと思ったりもしたが、杞憂だった。いざ書き始めると、全然関係なかった。一応、オット氏には「原稿の面白さを優先するので、傷つかないでね」と最初にフォローは入れてはみたものの、ここだけの話、まったく盛っていない。

そういえば、書籍化に向けて準備を進める過程で、編集部の他の方から「こんなに書いちゃって、ご主人は大丈夫なんでしょうか……」と心配されたことがあった。「大丈夫だと思うんですけど、念のため」と、編集さんに確認された(編集さんはオット氏とも面識がある)。

オット氏に聞くと、「何が?」と、キョトンとしていた。「いや、わたしもよくわからないんだけれど、ほら、世の中には男の沽券とかいろいろあるから、気を遣ってくれたんでしょう」と補足説明すると、「ふーん」と興味がなさそうなリアクションが返ってきた。キミ、そういうの、興味なさそうだけどな!

さらに、ゲラ(試し刷り)には目を通してもらったときも、オット氏が入れてきた赤字は「いち読者として読んだときに分かりづらい箇所」のみ。自分への評価や表現に対する手加減や変更のリクエストは一切なかった。ちょっと感動して、「男らしいね!」と褒めたら、「そんなのは当たり前でしょう」とケロリとしていた。大物なのか、アホなのかやっぱりよくわからない。

見切り発車で書き始めたときは、こんなにも早く、書籍という形でみなさんにお届けできる日が来るとは思っていませんでした。まだちょっと信じられませんが、ホントに書店にならんでいました。びっくり。早々に見つけてくれて、伴走を申し出てくれた博打打ち(男児2人をワンオペ育児中の肝っ玉かーさんでもあります)の話はまたの機会に!

かかわってくださったすべてのみなさんに感謝を込めて。

画像1

(追伸)リンク貼るためにamazonに行ったら、介護部門で3位まで上がってきてました。わー! ありがとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?