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『ジョゼと虎と魚たち』から見る障がい者―魚のモチーフに着目して―

はじめに(2024.02.07 付記)
以下は紺藤が大学一年生のときに近現代文学のレポートとして書いたものです。至らないところ、また、偏った思想などあるかと思いますがご承知のうえ!なんでも!いい人のみ!お読みください!

以下本文

 田辺聖子の小説『ジョゼと虎と魚たち』(①)において重要なのは、女性障がい者の性、そして周りから向けられる悪意、好奇の目について、フラットな視線でありのまま描いているということだ。現実世界では障がい者の雇用や、バリアフリー、ユニバーサル化が進み、創作世界の中でも障がい者の恋愛というものが取り扱われやすくなった今の世の中においても、障がい者の性の問題については非常にセンシティブで、忌避されがちな題材である。このことを踏まえたうえで、ジョゼの障がい、そして表題にもなっているモチーフである「魚」を通して描かれる「生」と「死」について、映像化作品と原作小説を比較して考察していく。

 原作小説(以下原作、①)が発表されたのは1984年で、当時はまだ身体障害者福祉法が施行されていた頃であった。この法は障がいの「克服」と社会への「参加」を強制するもので、その機会は健常者から与えられるものとされていた。当時は、この障がい者のためのものでいて健常者の目線でしか作られていない、矛盾した法の撤廃のため、しばしば反対運動が起きたようだ。小説本文にも、差別闘争のため、デモや集会を行って行政に押しかける者がいるという描写がなされている。しかし、ジョゼはそんな世界とは遠い人生を送っていた。家から出ることをほとんど許されず、閉ざされた世界で、ひっそりと、生きているのだ。これはある意味で、障がいとともに生きるジョゼの覚悟を描いているのではないかと思う。障がいを武器にも盾にもせず、ただ抱えて生きるものとして捉えているように感じられた。また、恒夫とジョゼの恋愛模様が、性的描写も交えて描かれていることで、恒夫とジョゼの関係は「健常者と障がい者」ではある以前に、ただの「男と女」であることにも気づかされる。原作では、ジョゼが一般的な「障がい者」という型に収められていないとも言えるのではないだろうか。

 対して、実写映画(以下実写版、②)では、恒夫の周囲の人間からジョゼという「障がい者」に向けられる目が細やかに描かれている。雀荘の客たち、ジョゼの祖母、恒夫の弟などの心ない言葉や好奇の視線。さらには、ジョゼの家をバリアフリーにするために来た業者や、福祉を学んでいるはずの香苗など、障がい者に対して理解を示すべき人々の言動からも、障がい者への蔑視が感じ取れる描写が数多く存在する。しかし、これに対し、ジョゼは、乳母車での散歩の際に護身のため包丁を持ち歩いたり、「あなたの武器(=障がい)がうらやましいわ」と言い捨てた香苗に対し「ほんまにそう思うんやったら、あんたも足切ってもうたらええやん」と言い返したりする(②1:21:04)など、障がいを持つことで向けられる悪意に立ち向かっている。しかし、それは捨て身の反撃であり、自分の障がいからは逃れられないという諦めと受け取ることもできるのではないだろうか。自分が傷つけられるのと同じように相手を傷つけ返そうとしているだけであり、ジョゼ自身は既に心に深い傷を負っているのだ。

 そして、アニメ映画(以下アニメ版、③)は、上記のいずれとも違い、ジョゼが社会参加を果たしている。ジョゼは、恒夫のバイト先の人々や図書館の花菜、子供たちなど、様々な人と関わるようになり、最終的には事故に遭った恒夫を励ますため、自らで紙芝居を作り、図書館で読み聞かせを行っている。原作、実写版における、恒夫以外の人間にほとんど心を許すことのないジョゼではとても考えられない行動である。このアニメ版が公開されたのが、障がい者に対する差別や偏見がずいぶん減ってきている2020年時点の公開であったこと、また、実写ではなくアニメにアダプテーションすることで、広い視聴者層を想定していたであろうことが、ジョゼを前向きな人間として描いている理由であると考える。つまりこれは、ジョゼが障がいを「克服」し、社会へ「参加」していくまでの成長の物語なのだ。

 ここで、上記の各媒体における障がい者としてのジョゼのありかたを踏まえたうえで、「魚」というモチーフについて考えたい。

 原作では、魚というモチーフは「生」と「死」の両方を象徴していると考える。原作中に魚が登場するのは、ジョゼが恒夫と海底水族館に訪れるシーンのみである。ここでは、自由に泳ぐ鮮やかな魚たちを食い入るように見続けるジョゼの姿が描かれており、この段階では、ジョゼが魚へ向けている感情は、自由な「生」への羨望のようにも思える。しかし、その後、ラストシーンで、ジョゼは魚を「死んだモン」として捉え、死は完全無欠な幸福と同義であると考えていることが明らかとなる。ここで初めて、魚というモチーフが「死」に結び付けられる。まるで海底のような二人きりの場所で、死んだ魚のようになっているとき、ジョゼは「障がい者」でなく、一人の「女」として幸せを感じることができるのだ。だが、ここでの死んだ魚というのは二人の姿を指したものであり、死んだ魚という存在は実物として作中に現れることはない。このことは、二人が「死んだモン」でいられる幸福な時間の不確実さを示唆しているのではないだろうか。

そして、その別れを明確に描いたのが実写版である。実写版では、恒夫とジョゼが訪れた水族館は休業しており、ジョゼが生きた魚を目にすることを諦めなければいけなくなる。この描写は、先述したジョゼの障害に対する諦念を暗示しているのではないかと考える。そして、実写版では、焼き魚が度々クローズアップされる。焼き魚というのは「死んだモン」であり、魚を「死」と結びつける明確な要素となる。また、焼き魚は食べることで失くすこともできる存在であることから、焼き魚を食べる描写は、ジョゼの考える「死」という「幸福」を少しずつ失っていく行為であるとも取ることができる。このことから、劇中に何度も焼き魚を映し出すことで、最後に待ち構えるジョゼと恒夫の別れを暗示していたのではないかと推測する。

 一方アニメ版では、死んだ魚が描かれることはない。恒夫が潜った先で見る魚も、ジョゼが夢の中で出会う魚もどれも鮮やかで生き生きしたものである。また、恒夫とジョゼの二人は、原作、実写版と同じく水族館にも訪れているが、先述した原作の海底水族館や、実写版に見える寂れた様子の水族館とは違い、人もたくさんいる明るい雰囲気の場所として描かれていた。そのほか、恒夫の留学の目的が魚であることや、恒夫がジョゼに贈った魚の形のランプからも、魚というモチーフに対して明るい印象を与えていることがうかがえる。この上で、ジョゼが障がいを乗り越え、社会参加を果たしていき、恒夫との恋も成就するというストーリー構成となっていくことを踏まえれば、アニメ版における魚は「生」の象徴であると言えるのではないだろうか。

 以上から、原作、実写版、アニメ版のそれぞれで、タイトルにもある「魚」に抱かせるイメージが大きく異なってくることが読み取れる。そして、それは各媒体における障がい者としてのジョゼの在り方にも通ずる部分があると言えるのではないだろうか。

 原作小説では、その障がいを大きく取り上げることはせず、一人の女性としてジョゼを描いている。そしてその世界には「生」と「死」のどちらもが混ざり合っており、障がいというものを背景に置きながらも、非常にリアリティのある、ただ二人の日常を切り取ったような作品になっていると感じた。一方実写版では、ジョゼの障がいと、障がいに対する社会の目というものに注目されている。だが、障がい者蔑視という社会的問題を作品に取り入れつつも、そこを主題とすることはなく、あくまで恋愛物語として描かれているところには、原作との類似性を感じさせる。また、魚を通して「死」のみを描くことで、原作を踏まえたうえで、その延長線上に二人の苦悩や別れというオリジナルのストーリーが構成されていることを鑑みても、アダプテーション作品として成功していると言えるだろう。そして、この三つの媒体の中でも異彩を放つアニメ版では、鮮やかな「生」、そして障がい者の自立、社会参加を描き、実写版で取り上げられた社会的な問題を解決するまでの流れが生まれている。アニメ版の持つ雰囲気は、原作や実写版の持つそれとはかなり対極にあるが、オリジナル性を発揮しつつも、大まかな原作の流れを踏まえ、現代の大衆受けする作品として見事にアダプテーションされている。小説、実写映画、アニメ映画という異なる媒体、かつ異なる時期に公開された三つの作品を比べることで、その時代における障がいというものに対する捉え方、そしてそのテクストによって想定される閲覧者に合わせられた物語の構成というものを感じることができた。


参考資料
① 田辺聖子(1987)『ジョゼと虎と魚たち』角川書店
② 犬童一心監督(2003)『ジョゼと虎と魚たち』妻夫木聡、池脇千鶴出演、フィルムパートナーズ、(U-NEXT)
③ タムラコータロー(2020)『ジョゼと虎と魚たち』中川大志、清原果耶声優出演、ボンズ、(Amazon prime video)