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最終弁論「十五の覚悟」の開示

意外と評判が良かったらしいので、ちゃんと文字に残しておこうという次第。これで紫紺選考会出るべきだったね。

元原稿

なくて良くないか
最終弁論の意義
何かを始めるのは、既に取り組まれている
何かを終わらせる、というのはどうだろうか
北陸本線・SF研究会
簡単だが苦しい終わり↔︎難しいが楽しい始まり
必ずしも「悪習と革新」の図式にはならない
誰かが幕引きを引き受けないといけない
駿台雄弁の現状と問題
想像の前には破壊がある
伝統だからといって、守り続けなければならないことはない
だが、それが何故に伝統たるのかを考えてみるアプローチは必要
ただ「時代錯誤」だからと捨て去るのは、本質を見落としかねない
自由恋愛とお見合い・理由不明の「手すり使うな」→必ず意図があったはず
ただ廃すのはもったいない
根底に通じる理念や認識は受け継げる可能性
社会では無理のある理想論でも、雄弁部では実践できるのではないか
歴史から教訓を見出せ
その上で終わらせるのなら、余計な軋轢も生まれづらい
駿台雄弁も、その目的と意義を共有された上で今後を考えてほしい
慶喜なくして明治なし
日陰役ではあるものの、前に進むためにも「幕引き」の作法は重要

はい、ただのメモ書きです。
(前日朝までカラオケにいる等した関係で)準備時間がなさすぎて、とりあえず持ち込んだこれで17分くらい使ってしまっていました。本当にちゃんとプロット通りに読まれたのでしょうか。

以下はメモの解説(素面では解読しづらいため)を軸に、どういうことを最後に弁論したのかを文字起こしすることになります。興味のある人だけ、どうぞ読んでください。

解説

なくて良くないか

一番意味がわからないこれは、私の知る限りで最高傑作の弁論の導入を(また)引用した形になる。
入ったばかりの頃に初めて目にした弁論がこれだったので、幕引きにも登場させてみたかった。それだけなので、特に意味はない。

某先輩、すみませんでした。

最終弁論の意義

これはちゃんと言語化しないといけない部分なので、少し長くなる。

私個人としては"紫紺杯に出られなかった者たちの場"というのは、流石にそれは負け犬の顔つきで嫌だったので、ちゃんとそれっぽい意味付けを頑張ってみました。

結論としては「審査がない以上は名実共に大会ではなく、身内で門出を記念する儀式に過ぎないのだが、そうは言っても弁論である以上はただ遺言を残すだけじゃ足りない」ということを言った、ような記憶がある。
長く在籍したからこその視野から、身内向けの問題を提示しつつも、その解決については去る者が何か言っても意味が薄いので、有耶無耶にしつつ匙を投げる。
最終弁論であるのだから、弁論をしようという話。

何かを始めるのは、既に取り組まれている

身内に限らず、国や企業、団体どこを取っても何か新しいことを始めるマインドは(上手くいってるかは別として)十分に広まっている。
前向きに、新しい何かのために、勇気を出して進み出す。現実社会に限らず、フィクションにおいても"善いもの"として見出されるそれは、実際のところ重要なのは間違いない。
だが、いやむしろそれ故に、わざわざそれを口にする必要はあんまりない。
言われなくたって、後輩たちは既に動き出している。この数年でたくさんの新規計画が動いては頓挫し、たまに上手くいって……。軌道に乗せるのが難しいのは依然として変わらないかもしれないが、私が何か言うことはやはりない。

何かを終わらせる、というのはどうだろうか

これが本題。
"前に進む"ことの重要性は皆が皆認知しているが、その対極に位置する"前に進ませない"ことは、果たしてどの程度の重みがあるのか。

ぶっちゃけポジティブな話ではなく、半ばタブーな内容にもなり得るのだが、だからこそもう去る者が提起する意義があると考えていた。言い出しづらいことを口にするのはいつものことだし、ハードルが高いこそ上手いこと綺麗な話に昇華してやろうと逆張り精神が高鳴った。
そういう性格なので、捻くれたチョイスとなりました。

北陸本線・SF研究会

「誰かが終わらせた何か」の具体例。

前者は、ちょうど弁論をやった当日に延伸した北陸新幹線の裏でこっそりと役目を終えた特急街道(本当に凄いタイミングだったので、テーマ的に入れないわけがなかった)。

後者は、少し込み入った事情はあるのだが、訳アリで入っていた今年度で活動を終える大学のサークルのことである。できたばっかりのサークルが空中分解するわけではなく、高齢のOBがいるくらいには歴史のあるサークルだったので、終わらせるのも簡単ではない(実は弁論のきっかけは、少し前にここの部室の片付けを手伝ったときに実感した諸々だったりする)。

共通して言えるのは、ちゃんとした"終わり"をセッティングするのは割と大事だし、始まりとは別の面倒が付き纏うということ。
一応儀式は儀式だからと、自分語り要素を具体例として挿入した形。

簡単だが苦しい終わり↔︎難しいが楽しい始まり

ここは文字通りなので、あんまり言うことがない。

何かを終わらせるのは、何かを始めるよりも道のりがはっきりしている関係で比較的簡単だが、目に見える形での実績にもならなければポジティブな結果にもなりづらいので苦しくなる。

それ故、触れづらい話題になってしまいがちであると。

必ずしも「悪習と革新」の図式にはならない

更に触れづらくする要因が、これ。

市民革命のような"巨悪の打倒の物語"は、フィクションでは頻出であっても、21世紀の今日においては希少だろう。
大義名分があれば、わかりやすく何かを終わらせる/断ち切ることも賞賛を得られるわけだが、肝心のそれはここにはない。
むしろ、先に挙げた例のように、惜しまれながらも終止符を打たねばならない場面のほうが多い。というか、物語ありきの終わりは、敢えて言わなくたってやりたがる誰かが出てくるものだろう(正義の味方になれるチャンスなのだから)。

物語なき終わりは、汚れ役にほかならない。

誰かが幕引きを引き受けないといけない

苦しいことなら、逃げれば良いのかもしれない。
だが、現実はそれを許さないし、他ならぬ私が見て見ぬフリをしてる余裕はないと考えている。

サークルの活動は、有限である。ウチであれば週に一回の土曜日がその大半だし、そのうちの結構な割合は毎年の恒例イベントで埋まっていく。自由に新しい企画をやるスペースなんぞ、ほとんど残させていない。
リソースだって、そうである。無限のように思われる大学生の時間とは言っても、なんだかんだで皆は忙しい。
それでも何か始めようというのなら、何かを終わらせて余白を作らないといけない。今すぐにそれをする必要はなくとも、簡単には土曜日を増やせない以上は、向き合わないことには前には進めない。仮に重みのある伝統と対峙するとしても、本気で進歩を望むのなら避けては通れない。

駿台雄弁の現状と問題

駿台雄弁というのは、毎年刊行しているサークルの記念誌のことである。

これも具体例であるのだが、先ほどとは違って身内向けのダイレクトな問題提起である。
もう長いこと刊行され続けているそれは、間違いなく伝統の一つに数えられる。その一年の活動や弁論原稿etcを記録する大切な書物であり、私はもうかれこれ3年くらいは関わってきた身である。身内の中では、一番詳しいはずである。
だが、私が去るタイミングになって、その持続の怪しさが姿を現した。大切な伝統であるのはそうなのだが、伝統あるある"担い手不足"はここにも顕在で、その他の役職と比べても労苦がエゲツない上に作業が複雑でめんどくさすぎるせいで、とにかく「私やります!」の声が出てこない。今年度も心の広い後輩が引き受けたくれたわけだが、今後は私がサポートに入ることもできなくなる。
誰もやりたがっていない現状がある中で、果たして駿台雄弁を持続させる意義はどこにあるのか。意義があるとしても、それだけで献身してくれる誰かを探し出せるのか。
私が何か言うのは違うので、あくまで議論を提起するに終始した。

想像の前には破壊がある

悪い意味で言われることも多いわけだが、先に少し触れたように"何かを始めるための終わり"という形式がないと、やはり着手する気にはなりづらいだろう。
なので、このくらいのマインドでやってほしい、という後輩への助言のつもりだった。

伝統だからといって、守り続けなければならないことはない

少し前の内容とほとんど重複するのだが、さっき書いてないことで言えば「仮に私(の代)が始めたことであったとしても、必要とあらば終わることになっても構わない」というメッセージである。
伝統が継続することは、とりわけそれの始まりに関与しているのなら、喜ばしいことである。だが、もし後世で挑戦を阻む腫瘍となるのであらば、そのときは断絶させてほしい。
「もし私が私でなくなったら、56してくれ」みたいな、フィクションで見かけることのある台詞と趣旨は同じである。遺書があれば、少しはやりやすいだろう。

だが、それが何故に伝統たるのかを考えてみるアプローチは必要
ただ「時代錯誤」だからと捨て去るのは、本質を見落としかねない
ただ廃すのはもったいない

※どうやっても被るので、ここだけ三つまとめた。

想像の前には破壊がある、とだけ残すことの危うさには既に触れている。だからこそ、弁士としての責任として、そのカバーはせずにはいられない。
伝統を単に終わるものとして「さよなら〜」するだけになるのはもったいないし、何よりこれこそが後悔を生みかねない危うさである。めんどくさい、何のためにあるのかわからない。そうした感情は尊重されるべきだが、それだけを理由に終わらせた何かは後になってから「まずった」となる(という経験則)。
自分たちが終わらせようとしている伝統は、一体何なのか。どのようにして始まり、伝統になるほどに持続したのか。伝統は、簡単には作り出されない。当たり前の中に溶け込ませるには、一筋縄ではいかない。何かを始めようとしたときにぶつかる壁の一層ではないだろうか。
想像の前には破壊があるからこそ、伝統とは対話しておいたほうが良い。そんな提案である。

自由恋愛とお見合い・理由不明の「手すり使うな」→必ず意図があったはず

また具体例。

令和の日本にとって、お見合いは最早馴染みのないもので、自由恋愛が当たり前の形式になっている。親がセッティングしたお似合いの相手と結ばれるというのは、端的に言って「時代遅れ」だと思われがちなのではないか。
ただ、その当たり前と共にやってきたのが非婚化であり、出生率の低下というのもまた然り。時代錯誤と思われたお見合いは、社会の持続に必要不可欠な出生の維持に貢献していたのかもしれない。そういう目的をもって始まったとは限らないが、無意味であったとは言い難いのは確かである。

手すりというのは、ちょうど数日前に地獄谷の奥地を歩いていた時の話。
凍りついた階段の手すりには「使うな」の警告が置いてあった。こんな冬場、何も掴まずに階段を上り下りするのは、ほとんどの人が危険だと感じるだろう。私もその一人だったので、耳も貸さずに手すりを使ってしまった。
その結果どうなったかと言えば、手すりの付け根が脆くなっていたため、手すり自体がフラフラして余計に危なくなっただけである。思いっきり足を滑らせ、怪我する寸前だった。先の警告の意味を、ようやく理解した。

根底に通じる理念や認識は受け継げる可能性

長い伝統であるほど、それが始まったときの環境と今との間で大きなギャップがあるものである。当時はそうするしかなかったことも、今であれば他のやり方がある。ペーパーレスなんかは、その典型ではないだろうか。
そういうわけで、表面的にはあまり参考になるところはないわけだが、何をしようとしていたのかは参考になるかもしれない。或いは、何故に途絶えることになったのか。きちんと使えるものは最後まで使い切って、何かしら有意義な教訓はないものかと漁ってみる。手段こそ別物だとしても、意外と我々の視界には映ってないものがこもってたりするのは、先ほどの例だけでも割と伝わるのではないだろうか。

社会では無理のある理想論でも、雄弁部では実践できるのではないか

※雄弁部…今回の「身内」と同義。

伝統と進歩は、しばしば敵対する。
政治的な対立の中にも、こうした構図は結構な割合で含まれてるだろう。それ故に、どうやっても社会全体で「進歩のために伝統を顧みましょう」みたいなことはできない。互いの陣営から裏切り者扱いされて、干されてしまう。
だが、狭い社会たる学生サークルであれば夢ではない。論敵になることはあっても、その調停者が裏切り者扱いされるような場ではないことは、この4年間で確信している。

歴史から教訓を見出せ

内容的には重複しているのだが、敢えて伝統を歴史にまで拡大させている理由を説明すると、一応私が史学科出身だからである。
断絶させるとしても、教訓は引き継げるかもしれない。

その上で終わらせるのなら、余計な軋轢も生まれづらい

伝統の終焉が進歩の開幕として回収されるのであれば、退場する側としても納得しやすい。
北陸本線は"より便利な新幹線と入れ替わって"消えていったし、SF研究会の部室は"部室を欲する新たなサークル"のために使われることになる(実際、部室希望サークルは山のようにある)。
対立の調和としても、上手い具合に機能してくれるはずである。

駿台雄弁も、その目的と意義を共有された上で今後を考えてほしい

老害承知の発言だが「現状誰もやりたがらないだけの駿台雄弁の今後を考えるにあたって参考にしてほしい」というメッセージ。この点だけは自己主張してしまって申し訳ない。
もちろん、その結論としての廃止であれば、素晴らしい決断として賞賛されるべきである。

慶喜なくして明治なし
日陰役ではあるものの、前に進むためにも「幕引き」の作法は重要

タイトル回収のためのメモ+アジテーションなので一括で。

演題の十五とは十五代であり、大政奉還で有名な徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜のことである。
大政奉還自体は幕府側の思惑もあったとか言われているとかそうだが、列強が味わった革命の惨劇抜きに時代転換を進めることができた(戊辰戦争は比較的マシということで……)のは、旧体制たる幕府の穏便な撤退あってこそなのは否定しづらいのではないだろうか。
改めて「新時代の幕開けにはそのスペースを作るための幕引きが必要である」というメッセージ。目立たない役割ではあるのだが、だからこそ弁論をもってその意義を訴えたわけだある。

終わり

あとがき

メモ書きベースだったせいで構成がめちゃくちゃ気味になっている気がするが、読めなくもないはずなので許されてほしい。
普段と違ってエビデンスは経験則が多いし、具体的な提言もないこれにどれほど価値があるのかは、私自身にはわからない。
ただ、あくまで身内向けの遺言を兼ねた弁論なので、それを口にした時点で最低限は超えているものと思う。その内実については後輩が決めれば良いだけであり、判断材料として質疑にも(一応)答えたつもりである。

では、これで。
質疑があれば、TwitterのDMとかで送ってください。

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