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気持ちポイントとアタチュー【雑記】

 世の中には『気持ちポイント』という便利な言葉があるらしい。僕は初めて知った。どれくらい便利かと言うと『コンプライアンスと鍵掛け』くらいの勝手の良さのようだ。使用方法はこのnoteに詳しい。

 という訳で今回のnoteでは、実験的に気持ちポイントを導入して積極的に利用してみたい。ただ勿論人間の営みというものは気持ちだけでは伝わらないことがたくさんある。そこからはコンプライアンスと鍵掛けの意味合いから有償とさせて戴くことをご了承願いたい。

 と思ったが今日のところはお気持ちベースで行こう。面白く読んで戴けたらファボ&RTして貰えたら幸いである。

アタチューの来歴について

 お気持ち麻雀の数あるオプションルールの中に『チューリップ』というものがある。変則版アリスの事で、アリスは現物のみに適用されるがチューリップは両開きだ。例えば、1sが開いたら現物の1sに加えて2sと9sに祝儀が乗る。大体5千点祝儀で遊技する事が多く、アリスに比べて圧倒的に継続し、時として爆裂に乗る。「アリスそのものがよくわからないよ」という方は以下の記事を参考にしてほしい。

 「面前が弱くて七対子ばっかり。こんなの麻雀じゃないよ」とアタマで気持ちが辛い人向けに考案されたのが『アタチュー』というルールだ。三度の飯より射幸的遊技が好きなアタマヘッズの諸君ならばすぐわかるだろう。「アタマ+面前チューリップ」のことである。「なんだそれ、すぐ気持ちがどうになかってしまうよ」と良識ある人間は言うだろう。だからどうした。人はみなどうにかなりたがっているし、どうにかなるためにはどうかしていることをするのが手っ取り早い。よりスリリングに、よりアグレッシブに。こうして禁断の遊技アタチューは生まれた。

お気持ちが溢れて止まらない

「り、立直!」

 常連の若い男が勢いよく牌を曲げた。彼の首に掛かった黄金の竜のペンダントが大きく揺れる。黄金竜は根っからのチューリッパーであり、普段はアタマへの忌避感が強い。お互いの要求を満たすため、「アタマとチューリップをまぜちゃえばいいんだよ」という僕の誘いに乗って卓に着いた。若くして金満華僑さながらの風貌を備えていて、チューリップ特有の押し麻雀はなかなかに堂に入っている。対するのは彼に向き合う形で上家に座る僕と、メンバーの金髪メンヘラ。こちらは熱心なアタマヘッズで、意欲的にハダカを仕掛ける曲者である。大きな瞳に筋の通った大きな鼻の端正な顔立ちをしていて、危機感と期待感のカクテルを浴びてメンヘラの白い頬が微かに上気する。

 なんといってもこれはピンアタチュー。まだまだ山はたっぷり残っている。もうすでに40000気持ちポイント近くすり潰された黄金竜のお気持ちも、ここぞでチューリップを咲かせさえすれば一発逆転の目が出るというものだ。これが危機感の部分。期待感といえばこれはもう単純極まりない。僕も金髪メンヘラも、とうの昔に手牌は一枚こっきりだ。卓には晒された対子が6組×2。見紛うことなき二人ハダカである。

 何はともあれアタマの基本は、生牌の数をきっちりカウントすることに尽きる。僕も聡い金髪メンヘラもとっくにわかっていた。「もう残っているのはアレしかない」と。曲げに入った黄金竜はもちろんのこと、僕も金髪も、もう誰も手牌を変えることはできない。待ち換えをしたら最後、役満払い+5000気持ちポイントが大放出確定なのである。何を掴もうと、切るしかない。それこそが潔い男の生き様というものだから。

 皆が強い調子で牌をツモ切る。ツモ切る。またツモ切る。立直から数順も経たぬ頃、意外と早く決着は訪れた。

うお

 小さな吐息と共に、模打のリズムが止まった。自分の掴んだ牌に目を見開く黄金竜。これは、決まったな。僕も金髪メンヘラも、牌を抑える親指に自然と力が入る。

バッチーンッ!

 黄金竜が、悔しくてならぬという表情で鳳凰を叩き打つ。

「ロンッ!」

「トリンドルレェナッ!ラストィ!」

 二人の高らかなロン発声が店に響き渡る。勿論、僕はマナーをもっとも重視しているから牌の正式名称をきちんと叫んだ。卓の上に三羽の鳥が大集合。これが本当のサントリーだな、などと考えながら卓の上で気持ちの遣り取りが始まる。黄金竜は箱下4万点のアルティメットかっ跳び。祝儀モロ込みで実に20000気持ちポイントの大盤振る舞いだ。

いやあ、美しいツインシュートだね

 僕が何気なくそうつぶやくと、黄金竜のこめかみに青い血管が渦巻く。さて、ここからが本番だ。気を引き締めて牌を落とした。

こーぞーてきぼうりょくについてかんがえる

 みなさんは『構造的暴力』という言葉をご存知だろうか。私たちは暴力という語について思考を巡らす時、何をアタマに浮かべるだろうか。それは鉄拳でもよいし、原始的な棍棒でも、銃器でも、核ミサイルだっていい。社会学的にそれら一切の手段は『直接的暴力』に分類される。積極的に行使される他者の権利を脅かす力の事である。そこには行使する何者かが必ず存在する。家庭内暴力のために拳は振るわれ、暴徒は鉄パイプを手にし、テロリストはサブマシンガンを構え、そして国家元首は手元のボタンに指を掛ける。

 比して、構造的暴力とは誰も名指しで非難することができない潜在的な力の働きを指し示す。それは例えば貧困であり、例えば差別であり、例えば飢餓である。まとめて言えば「社会が悪い」とされる悲痛な出来事を全てひっくるめて暴力としているのである。そしてそこにあるのは非対称性であるとされる。飽食の時代にあり、多量の廃棄弁当を出す我々の社会は意図せずして第三国の恵まれぬ子供たちに暴力を振るっていることになる。そこにあるのは経済的な不均衡であり、ともすれば技術の不均衡であり、知識の不均衡であるかもしれない。彼我の持つ不均衡を暴力と断じる『やさしいせかいのかんがえかた』、それが構造的暴力という語の本質だ。

 さて、長々とたわ言を述べた非礼をお許し願いたい。なぜこんな話をしたのかといえば、僕は今から『アタチューというゲームの持つ構造的暴力』について話したいからだ。そもそもお気持ちの遣り取りというものは根本的に、ルールに則った上でのお互いへの暴力を愉しむためのものである。そこには勝つ者と敗れる者があり、日常では決して容認されない「ごく軽快で明快な暴力の行使」が平然と行われる。個人的には至極真っ当な人間の在り方であると思うし、お気に入りの世界観でもある。

 しかしながら、虎狼国より産まれ出でたアタチューには、その背後に恐るべき構造的暴力をも潜ませている。ここにあるのは厳然たる情報の非対称であると言ってよい。単純に「アタマにチューリップを足したもの」とだけ認識しているならば、それは最早ガソリンを被ってダイハードするに等しい愚行だ。熟練チューリッパーたる黄金竜と言えどもその例に漏れない。彼はひとまず、アタチューに於いて決して犯してはならない二大愚行のひとつを犯し、そしてお気持ちを炸裂させた。

 その愚行とはつまり、『後手を踏む面前を組むな』である。これはそもそもアタマ本来でも犯せざるタブーであるが、アタチューでは猶である。アタマより面子手が弱い、ということでは決してない。中途半端に強いからこそより危険なのだ。あまりにもチューリップの魅力が強すぎて、途中で諦めて仕掛けてハダカをかわす、というムーブを取りにくい。なんせ、次々とアタマが起こってどんどんツモ番が回ってくる。普通の麻雀では考えられない速度でシャンテンまでするすると進むだろう。そこで人間の心根にある恐れと欲とが湧き上がる。「ここで鳴いて、この後のハダカに対抗できるのか?」という恐れと、「ぐっと堪えて面前でぶつければチューリップ込みで互角。ぶちかましてやる」という欲が織り成す心の叫び、それが「ここは面前!である。ここまで思考が追い込まれれば、実質的に一丁上がりと言って良い。

 こうして黄金竜はアタチューの構造的暴力の被害者となり、三位合体お気持ち大集合を喰らったわけだ。そしてこの後、かれは次なる二大愚行を犯すこととなる。では、闘牌に戻ろう。

怯懦は猛悪に如かず

アタマッ!

 先ほどのツインシュートから、黄金竜の口から似つかわしくない発声が飛び出すようになった。1アタマ、2アタマ、3アタマ。ある程度手が短くなってしばらくすると、引いてきた牌を猛然とツモ切りはじめる。

「アタマアタマアタマ」

「アタマアタマアタマアタマ」

アッタァマッ!

アアアアタッマ!

 気炎を吐いてハダカに猛進する僕と金髪メンヘラ。色の抜けた肌はもうとっくに朱に染まっていた。顔はちょうど、八乙女光を人間の屑にした感じに似ている。

 黄金竜の所作は、もう絵に描いたような道中ムーブである。しかも憤然として待ち牌選択をしないとなればもう当たり牌はそれだけで三分一。赤5sか赤5pか表ドラしかない。放縦を回避してハダカで追いつくことなど僕もメンバーにも造作もないことだった。

 僕が先んじてハダカとなると、黄金竜のツモが寸時止まり、観念したとばかりに赤5pが打ち出された。

「ロン、役十二」

 ごく紳士的に役満の十二枚の支払いである事を告げると、僕は手元に輝く虹色の5pを倒した。「これ、良く似てますけど同じ柄ですか」と聞くまでもないことだった。意気消沈して崩された彼の手牌には、赤5pの対子と虹5sが儚げに並んでいた。手元のカゴから、お気持ちが舞った。

 さて、彼が当たり牌を暗刻で掴まされたことは果たして「この世の終わりみたいな不運」と言えるだろうか。僕は決してそうは思わない。アタチューの持つもうひとつの構造的暴力、つまりはもっともしてはいけない愚行を犯したからであると、僕は考える。それはつまり「ほぼ絶対に道中を組んではいけない」ということだ。

 良く考えてみてほしい。アタマにチューリップが導入されたことで、逆説的になまじかな火力ではアタマはチューリップに対抗できなくなってしまった。そもそも待ち牌は七対子よりも面子手の方が格段に多いのだ。そうすれば自然とアタマ側の取りうる選択肢は狭まる。「出足から施してハダカに突入して物理で殴る」、ただこれだけのシンプルな戦略を取らざるを得ない。原則的にアタチューとは『露出狂と花咲じじいのぶつかり稽古』なのである。

 而してチューリッパーの彼が取った選択はどうだろうか。はっきりと言えば、ハダカに怯えきった人間の苦肉の策に過ぎない。ここで意地になって面前を貫かれていたらまだどうなっていたか判らなかった。ドラスティックなルールには、半端な選択肢は事実上存在しないのだ。身を削り、心を削り、お気持ちを削りあう。これこそが熱と痛みである。

闘い明けて

 100000超の気持ちポイントを吐き出して、黄金竜からついに白旗が揚がった。僕と金髪メンヘラはそれぞれ彼からのお気持ちを受け取り、帰路へと着いた。時間にして、ほんの4時間ほどの出来事であった。くれぐれも述べるが、黄金竜が麻雀が不得手であるわけでは決してない。彼は勇敢なるチューリッパーであり、その図太さには何度も舌を巻かされた。しかし彼は、アタチューに潜む構造的暴力に気づくことはできなかった。これは一重に情報の非対称とも言えるかもしれない。「わからん殺しで気持ちをせしめた」と言われればそれまでのことだ。しかし、実は黄金竜、最前にもアタチューは経験済みであったのだ。そのとき彼は考えるべきだった。「一体何が肝要なのか」と。僕たちには考えることしかできない。しかし、考えることは全てだ

 彼は後日、こう言ったという。

二度と、もう二度と、アタチューはやらん

と。

 これは僕からの、偽らざる真の気持ちである。ゴッツァン



 


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