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音楽ライブにおけるvtuberの実在性と疑念

※このnoteはかなりメタ的視点を含むものであり、普通にvtuberのライブを楽しんでみている人にとっては悪影響になる可能性が多々あります。そういった方が読むのはおすすめできません。



はじめに

vtuberのイベントはどんどん増えてきていて、特に最近盛んなのがvtuberの音楽ライブだ。

リアルライブのみならずバーチャルライブ、またライブの生放送を含めれば僕はそれなりにvtuberの音楽ライブを見てきたと思う。

そうして会場で、生放送でライブを見ていくうちに僕にはある疑念が生じるようになってしまった。


その疑念とは今目の前にいる僕の好きな人は実際に今目の前にいるのだろうか?ということだ。

言い換えるとこれは「録画」なのだろうか?という疑念になるのだが、この疑念はリアル・バーチャル関わらずvtuberのライブが増え始めてからそれなりの長さで抱えてきたもので、「なんとなく録画っぽいな・・・」と思ったことはあっても、ただ「楽しかったあのライブに水を差したくない」という気持ちでいたから、ライブイベントに対して疑念の声を上げたことはない。

けれども明らかに録画形式のライブを含んだイベントが出てきたりしていて、界隈のほうでもそろそろ問題視されるようになってきたように感じている。
この辺りで一度考えをまとめるべきだろうと思ったことが今回のnoteのきっかけだ。


なぜ問題視されるのか

界隈で言われているvtuberの魅力の一つに「双方向性」がある。これはアニメキャラクターのような外見のvtuberと視聴者側の間で相互にコミュニケーションが取れるのが面白い、ということで、ライブで言うならばMCでの観客との会話や、曲のコールアンドレスポンスが当てはまる。

そして上記のような双方向性のあるコミュニケーションというものはそのvtuberがその場にいないと成り立たないことであって、だからこそ本当にそこに実在していてくれないと問題になるのだろうと思われる。


そこに存在しないといけない?

では実際にはそこにいない、「録画」ではいけないのかというと一概にそういうわけでもないと思う。
なぜなら「実在性の演出」ができるからだ。

とどのつまりこれはあらかじめ観客の反応を計算して録画しているということなのだが、これはvtuberがアニメキャラクターのような外見を持っているからできることの一つで、実際初音ミクやアニメキャラクターがライブをするイベントではこのような「演出」が使われているようだ。

この「演出」をうまく使うことで実際はそこに存在していなくても存在しているように見せかけ、ライブとして楽しませることができる為、vtuberの利点の一つといえるだろう。

まあファンの目線から正直に言うと目の前の人はいついかなる時であっても本物であってほしいが、技術的課題だとか、時間的制約、演者側の負担軽減、リスク回避等もろもろの理由は簡単に思いつく。


録画方式の問題点

ただここで問題なのは何かの拍子に観客側がこれは録画だとわかってしまうとまずいということだ。

演出は薄っぺらい嘘になり、実在性はなくなる。
目の前に実在すると思っていた人が実は虚像だった、と理解したときに感じる喪失感は想像に難くないだろう。

一度録画だとわかるとファンは何もかもが嘘のように見えてしまうようになるし、なによりあのライブでの熱狂や感動が意味のないことであったかのように感じられてしまうのがつらい。

たとえそれが録画だとしても、イベント側は観客側がこれは録画ではないのだろうか?という疑念を抱かせないようなイベント進行が重要なのだろうと思う。


疑心が暗鬼をつくりだす可能性

そしてこの実在性の問題が界隈で少し話題になってくるようになってきた中で僕が心配していることは、そこに本当にいるのか/いないのかがvtuberの不透明性によってわからなくなり、推測で語らざるを得ないという状況が何かしらの良くないことを引き起こすのではないかということだ。

リアルな人間と違ってそこに本当に実在しているのか録画なのかがわからない為に、一度抱いた疑惑は拡張し続け、本当は実在しているのに、録画のように見えてきてしまうといった、いもしない「暗鬼」を作り出してしまう可能性がある。

ライブシーンとは別の話だが今まで起きてきたvtuber関連の問題もまたこのように憶測が憶測を呼び、良くない方向性に向かっていったしまった結果、炎上・・・・というパターンが多い気がする。


実在性と録画のメリハリが重要ではないか

ここで問題なのはそこに本当にいるのか/いないのかがどちらにも思えずに、不安になってしまうということだ。

解決策の一つとして実在と録画のメリハリをつける、つまり実在するならばその証明をする過程をいれること、録画ならばある程度は録画だと察せられるようにしたうえで、録画でないとできないような演出方法などで楽しませていくようにすればいいのではないだろうか?

実在性の証明の例として、個人的にはDive XR Festivalサマソニに出演したキズナアイのMCが好きだ。

Dive XR Festivalでは前列の女性客や観客に対して質問形式のMCをして積極的にコミュニケーションをとったり、(僕はサマソニに行ってないのでtwitterでの情報で申し訳ないが)サマソニではとある飲み物を持っている観客に対して呼びかけたうえで「録画じゃないよ、生きてるんだよ」といった発言を行ったらしい。

不安がっている僕個人としてはこれはとても安心する。「ああ、目の前で生きていて話ができるんだ・・・」という実感が湧く。

またこれとは別に録画ならば録画なりの演出というものがあるし、激しく動くダンス系の曲やミスが許されない世界観を作りこむような曲は技術的等のもろもろの理由で録画方式のほうが向いていると思う。誤解を避けるためにイベント概要に(動画での出演です)と書いてもいいかもしれない。


終わりに

上記のことを実行するとして、そのような過程を踏まなけれないけないというのはvtuberの「難しさ」が出てしまっているのではないか、と思わなくもないが、これもまたvtuberが「生きている」ということの証明の一つとしては必要と言えるのではないだろうか?

そういった「あえての演出の中に息づく生命」というのもvtuberの魅力の一つだと僕は思う。


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