見出し画像

FIREしてやるサーフィン・FIREせずにやるサーフィン

30歳でサラリーマンの傍ら起業し、32歳でFIREを勝ち取ることができました。以後30年近くFIREを維持しています。FIREできるビジネスについては他の記事でたくさん書いてありますのでご覧ください。今回は私がずっと続けているサーフィンとFIREの関係について書いていこうと思います。

よく行くポイントでチルアウト

サーフィンとの出会いは、19歳の時、アルバイトの先輩に誘われて伊勢国府の浜行ったのが始まりでした。GWの真ん中の5月4日、海には溢れんばかりのサーファーが居ました。もちろん板には立てなかったけど一度で心を奪われました。それから大学時代は仲間と火曜日はサーフィンの日と決め小さい車に5名フル乗車で海に通っていました。働き出してからは日曜日に行くようになりました。サーフショップにも所属し大会に出ていたのですが、ビギナークラスの上にオープンクラスという中級者クラスがあり、大体2回戦で負けてました。やはりしょっちゅう海に行かないと大会では勝てないんだな~と漠然と思っていましたし、めちゃくちゃうまいサーファーのクルマを見ると海のすぐそばのローカルナンバーであることが多かったのです。

1983年サーフィンを高校・大学の友人と始めた

ただ後でわかった事は、集中すればサンデーサーファーでもかなり上手くなる人がいると言うことです。私はそこまで気合が入ってなかったので、それなりにしかならなかっただけなのですね。それでも波のない日でも仲間と夕陽を見ればちょっとした感傷的な気分に浸ることができました。「波は無かった。。。でも仲間がいた。。。。夕陽に照らされた仲間の顔。。。プライスレス」みたいな。本心ではスネヒザみたいなサイズの波で何時間もクルマで行くのが馬鹿馬鹿しかったですが、それが私のFIREしていない時代のサーフィンであり、そして休日であり、それにしがみつくことで自分の小さなプライドを満足させていたのです。

その頃の心の内はどうだったかと言うと、結婚して子供ができれば大好きなサーフィンも回数が減るんだろうなぁと思っていました。人生最後のサーフボードを3年ローンでサーフショップで板をオーダーしたのです。当時乗ってたパジェロもサーフィンのステッカーをベタベタと貼っていましたが、結婚して子供ができれば元サーファーの車になってしまうんだろうなと思っていました。

多かれ少なかれ会社員でサーフィンやってる人は、そんなことを考えてるのじゃないでしょうか。その日は楽しいけど何か刹那的、サーフィンだけではなく自分の人生、本当にこのままでいいのだろうかと思っているはずです。私は、子供ができてサーフィンを辞めるぐらいなら、今2年間ぐらいサーフィンを止めてビジネスに集中し、FIREしたほうが絶対に良いと思うようになりました。このままならどうせできなくなるサーフィンなら成功者になって自由にサーフィンを楽しんでやると思い、集中してビジネスに邁進しました。


32歳 この日は優勝と3位でした


32歳以降は波があれば週5回でも行くようになりました。オープンクラスの大会では優勝や入賞が増え本棚にはたくさんのトロフィーが並びました。そしてスペシャルクラスという上級クラスにも出るようになりましたが、なかなかそこはハードルが高く地元の中学生にボロボロに負けたりしてました。でも通いの都会サーファーとしては、ショートボードでまぁまぁ頑張ったサーフィンはやっていました。

38歳以降は大会の成績が振るわなくなり3回戦負けなどもパラパラ出てきて、サーフィンが面白くなくなりました。サーフボードもウェットスーツも国内メーカーさんにお世話になっていたので、どうにかして楽しくサーフィンを続ける活動を見出したいということで、遅咲きですが38歳で初めてバリ島に行きました。それまではカリフォルニア・フロリダ・ハワイなどは行ったことがあったのですが、バリ島は東南アジアということでなぜか漠然と敬遠していました。

今から20年前は日本はまだ先進国でした。リゾート地はやっぱり先進国がいいんだ、イタリアのリゾート地なんて最高だぞ、だから発展途上国のリゾートなんて行きたくないと思っていたのです。だから東南アジアの素敵なブルーの海の写真を見ても心が動かなかったんです。そして今、日本は後進国になりました。そうです、発展途上でもなくむしろ後退しているのです。20年前は私が見向きもしなかった東南アジアのリゾートは今では日本人の憧れの地となりました。そして発展途上国の人々がクリスマスや正月の高い時期に平気で遊びに来れる安い国、これが今の日本の立ち位置なのです。

さて話を戻しましょう。38歳の春初めて行ったバリ島は1発でハマりました。空港からホテルに向かう時の景色・匂い、、、、初めてなのに何か懐かしい気がしました。それからは多い年だと年6回位バリ島に行くようになりました。ジュクンというボートでアウトに出て行きサーフィンする時、新婚旅行に来ていたサーファー夫婦に「私たちこれが最初で最後のバリ島かもしれません。BAGUSさんは次いつ来られるんですか」と聞かれたときに、「来月も来ますけど」と答えて目を丸くされたのが懐かしいです。

私が40歳の時にバリ島でテロが起こり、200名近い人命が失われました。その時にバリ島を中止にし振り替えて行ったのがプーケットです。波があるとは聞いていましたが、あまり期待せずに行きました。そうするとどうでしょうバリ島と違ってほとんどサーファーがいなく、メローな波が割れていました。

プーケットを夫婦でリゾートサーフィン

これまた1発でハマりました。バリ島の大きな波が苦手だった私は頭サイズでできるビーチの波が本当に楽しかったです。40台前半は日本人でプーケットで一番デカい波を乗るバリ島に負けた日本人(笑)をテーマにパイオニアになりました。クローズの海にも果敢に立ち向かいました。気が付くと累計で48回行ってます。しかも3週間などの滞在もしていたのでプーケットでするサーフィンの日数が私の人生の中で1番多くなりました。

そして、世界の波を開拓するようになりました。香港、韓国、マレーシア、イタリア。そして頻繁に通うことになったベトナムです。ベトナムはプーケット以上に人がいなく、日本の冬のシーズンに波が上がります。今まででしたらバリ島のサヌールに宿を取ってサーフィンをしていましたが、すっかりベトナム好きになりました。

ベトナムサーフィンはパラダイス

旅行記はアメブロのほうにあげてますので、少しだけリンクを貼り付けておきますね

さて、FIREして28年経ちました。以前ほど体力はなく、大きな波に立ち向かう体力もなくなりました。しかし道具を変えながら海と親しめるのがサーフィンの魅力です。心の内はどうかと言うと、自分のサーフィンのスキルがさほど上がらなかったのは、サーフィンを極めたいと言う気持ちがなくなり、サーフィンという文化を楽しみたい自分になったからということで納得しています。実際にFIREしなくてもサーフィンが上手になります。ただ人生が上手になるかどうかは別問題です。やはり将来の不安がなく、行きたい時にサーフィンに行ければ、サーファーとしての幸せは究極だと思うのです。私はそんな幸せになりたいサーファーを心から応援し、FIREの世界へ引き上げます。

FIREしなくてもサーフィンはうまくなる。

でもFIREした方が将来にストレスを持たずサーフィンできる。

今、BAGUSと喋ろう企画をやっています!公式LINEhttps://lin.ee/NwKikBYから必ず「無料ZOOM相談希望」と書いてメッセージください。尚、お友達登録と同時にFIREに関するプレゼント動画を無料でお送りします。




この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?