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それでも少女たちはセカイを生きる-5th LoveLive!を終えて-

こんチカ!

5thLoveLive!が終わり、思う所がたくさんありました。
あの景色は一生忘れないだろうし、素晴らしいものを彼女たちと僕らで作ることができたのだと感じています。
Believe again〜Over the next Rainbowまでの流れは号泣必至だし、アンコールで虹を作り出した時には、その虹の一部になれたことが嬉しくて泣いていた。
という話は置いておく。 

どうしても書き留めたくなってしまったので、
備忘録のように書きなぐっておこうと思うのだ。 

まず始めに、これはライブのレポートではない。
もちろん、ライブの話もしたいとは思うが、どちらかというとラブライブ!というシリーズを通して今に至る考察論文のようなものだと思って欲しい。 
考察論文と言うには拙文であるが、ご容赦いただきたい。

加えて言うなれば、考えれば考えるほどシリーズすべてを見直す必要があると感じた。
これは、この考察を得た自分が、今後ラブライブフェスに向けて、すべて見直していく過程で考えるべき備忘録代わりでもある。
この考察が正しいのか、間違っているのか。自分でもまだわからないが、ご容赦頂いた上で、読んでいただければ幸いである。 

9人の無垢なる少女の残酷な物語

ラブライブ!サンシャイン!!を一言で表現するなら残酷な物語であると言うほかない。
一つ、この物語の構成骨子を確認しておきたい。 

ラブライブ!を点の物語とするならば、サンシャイン!!は線の物語だ。
前提として、点の物語を創れるのは、天才のみである。
天才とは、ときに英雄と呼ばれ、ときに神と呼ばれ、ときに主人公と呼ばれる。
μ’sの9人は間違いなく主人公として描かれ、英雄となった。 

しかし、サンシャイン!!に天才はいない。
それは、過去から未来へと続く物語のラインを描くことしか出来ない凡人たちしか居ないとということである。
長く続いてきて、これからも続くであろうラブライブの歴史の中の、1ページに過ぎない。
Aqoursは、何者かになろうとして何者かになれなかった、それでも輝こうと足掻き続ける少女たちの物語だ。 

それは、この世界に生きる人々の中のおおよそすべての人に当てはまることであり、自分も例に漏れない。

なんて残酷なのだ。 

劇場版において高海千歌さんは、廃校になった旧校舎を訪れて

「なくならないよ」

と言います。
そして、沼津の街も、自分たちがやってきたことも、学校のことも、全てなくならないのだと続きます。 

しかし、それは裏を返せば、
私達がどうなろうとも、セカイは変わらずそこにあるし、
何事もなかったかのように回っていくのだ、と言っているように聞こえる。
なんて残酷な現実を見せてくれるのだ。

話を戻す。

ラブライブ!サンシャイン!!の物語は、彼女たちとセカイの物語と言える。
”夢”とそれに伴う”現実”を顕在化させ、ファンタジー的でありながら、限りなくそこにある物語がサンシャイン!!なのだ。

だからこそ、地方都市【沼津】のファクターが強く関係してくる。
日本は今、世界に類を見ない少子高齢社会となり、団塊の世代が引退することでその問題は加速していく。
都市部にすべてが集中し、労働力を始めとする資源は流出し、駅前にはシャッターが増え、地方は過疎化が進む。
もはや変えがたい現実でしかなく、それは全国で起こっており、我らが沼津も抱えている問題である。
彼女たちのいる街も、現実の波にさらされながらも、沼津として在り続けるために足掻いている。

沼津と彼女たちの親和性の正体のひとつであると言える。

ここから地方創生を語ってもいいのだが、主題からずれていくので別の機会に取っておくとする。 

オッサンたちのセカイ系物語

前項でラブライブは彼女たちとセカイの物語であると断じた。 
かつてゼロ年代、セカイ系という物語のスタイルがあった。
東浩紀や、大塚英志であったり、笠井潔が言及しているが、明確な定義は存在しない。
ただ、ここではジブンとセカイの物語、誰かとセカイの物語と大まかに定義したい。
セカイ系の話については、各自調べて頂きたい。
参考として挙げるなら、涼宮ハルヒの憂鬱や最終兵器彼女であったり多岐にわたる。
個人的には、セカイ系を深掘りすると、第三の新人から夏目漱石や白樺派まで遡ることが可能だと考えるが、文学史のお話になってしまうので割愛しよう。 

さて、私はラブライブ!がセカイ系だと断じたわけだが、
果たして本当にそうだろうか。

セカイと言うシステムと戦っているとするには、彼女たちの物語は幾分ミニマルに過ぎる。
しかし、私が感じたセカイ系の匂いを真実と仮定するならば、どこかにセカイと戦う人物が存在するはずだ。

そう、オッサンだ。

それは、作っている側の人間たちだ。
彼らは所謂クリエイターであり、たとえディレクターだとしても例に漏れない。
まあ、女性もいるだろうし、オッサンと言うには若い人材もいるだろうけど、ここは格好良くオッサンと呼ばせて欲しい。
オッサンは格好いいのだ。輝け、オッサン。


彼ら(彼女ら)は例外なく壁にぶつかり、現実を知り、それでもアニメが作りたかったり、絵が描きたかったり、物語が書きたかったりしてきたはずだ。
これは、現実は甘くないというセカイのシステムに対する、オッサンたちのセカイ系物語ではないのか。
それでも輝きたい彼女たちと、それでも好きなことを続けたい彼らの、そして何者かになりたいと思う我々全員の物語ではないのか。 

世の中の大半の人間は、学校に通い、そして卒業し、仕事をして、なんとかセカイを生きている。
その中で無数の出会いと別れ、成功と失敗、夢と現実を味わってオトナになっていく。

私事で申し訳ないが、この歳まで生きてきてやっと「すべては無駄ではなかった」と感じている自分がいる。好きなことに費やしてきた時間も、勉強から逃げてきた自分だったり、手痛い失敗や、辛くも成功した思い出も、何一つ無駄なことはなく、すべてが自分の力になっていることを、いまさらになって痛感している。
それは、オトナにしかわからないとも思っている。
オトナだから、失敗や別れ、成功や出会いにいろんなカタチがあって、何一つ間違いじゃなかったと気づける。
そして、それはスタートラインなのだと。

そう。サンシャイン!!TVシリーズ2クールと劇場版を経て、
彼女たちは、これからも続く長い人生のスタートラインに立ったのだ。
それを彼女たちはわかっている。
だからこそ、私は彼女たちに最大の敬意を払う。

閑話休題-クリエイターの末席を汚す者として-

理屈をこねくり回したので、一つ自分語りなどでお茶を濁そうと思う。

クリエイティブに関わる仕事を選択した自分にとって、このラブライブ!サンシャイン!!という物語は心の琴線をぶるんぶるん震わせてくる。
なぜなのか。
それは、至極単純である。

目標とするレジェンドがいて、
何者かになりたいと言う想いがあって、
それでいて、彼女たちは英雄じゃない。

彼女たちの物語に自分を投影しないはずがない。
サンシャイン!!TV1st seasonでは、全編を通してμ’sに憧れる彼女たちの姿が描かれる。
廃校の危機すらも、自らの試練と感じる全能感や無敵感と呼ぶべき彼女たちの感覚は、誰もが持っていたものではなかろうか。

しかしてそれは、今現在すべてのクリエイティブが何かしらの後発であると言う状況からも、否定することなど出来ようか。いや出来まい。
我々は、何者かになりたくて、「○○のようになりたい」という想いを持って努力を重ねている。

しかし、「○○のようになりたい」という気持ちと「何者かになる」という気持ちは、決して相容れないものだと、大抵が全て終わってから悔恨の想いと共にやってくる。

サンシャイン!!劇中において、かつてμ'sが解散を決めた国府津の高架下海岸で、目指すだけでは駄目なのだと気づいたAqoursの姿を見て、私は涙を堪えることができなかった。

当たり前のことだが、気づいていないオトナも多々存在する。
彼女たちは、ここでまた一歩オトナに近づいたのだ。

理想と現実の狭間

遡って、無印ラブライブ!の話に軽く触れよう。

あれは、英雄の物語だと断じた。
それは間違いない。高坂穂乃果さんを中心としたμ’sは間違いなく点の物語足りうる英雄であった。
それは、とても理想的な物語だった。

各話や詳細に触れることは、別の機会にするとして、
彼女たちの物語は、間違いなく「こうなりたい」と願うに足る物語だったと感じている。
それはクリエイターであったり、何者かになりたいと思う我々にとっても同じではないか。

つまり、ラブライブ!では理想を描ききった。
それも完璧なまでの。
だからこそ、我々は彼女たちを応援し、憧れ、そして「こうなりたかった」と思う。

そして、ラブライブ!サンシャイン!!では現実を描いた。
これもまた、辟易するほど完璧なまでに。
だからこそ、我々は彼女たちを応援し、憧れ、そして「こうなってほしい」と願う。

それは、作り手たちの自己投影と願望であり、我々の自己投影と願望でもある。
彼女たちはそれらを一身に背負い、歌い、踊り、そして終わっていく。
ラブライブ!は願いの物語なのだ。 

何者かになりたい者たちの、願いの物語

格好いい見出しをつけてみたが、ここまでとあまり主張は変わらない。
ただし、ここではラブライブ!サンシャイン!!劇場版 Over The Rainbowを引き合いに出して少しお話しよう。

正直、この劇場版を見た時の率直な感想は
「なんだこの映画、糞つまんな」
というものである。

しかし、その評価は覆ることになる。
まずはこのサンシャイン!!というストーリーと劇場版の位置付けを考えてみる。
前述の通り、ラブライブ!は点の物語だ。
だからこそ、彼女たちを中心にセカイは廻り、彼女たちの終わりによって物語は幕を閉じる。

しかし、サンシャイン!!は線の物語だ。
彼女たちは、歴史の一部に過ぎず、たまたまフォーカスされたグループに過ぎない。凡百のスクールアイドルたちの中の、一つの輝きに過ぎない。
だから、彼女たちが終わりを迎えても幕は閉じないし、幕は閉じても彼女たちの物語は続いていく。

その前提条件を履き違えてしまうと、この劇場版の意図するところは読み取ることが出来ない。
物語の軸に、ラブライブ!としての歴史と、Aqoursとしての物語と、セカイ(≒オトナ、現実)の物語が含まれているからだ。

主なファクターと物語の軸を表記すると以下のようになる。

ラブライブ!としての歴史
・Saint Snow (・Aqours)
Aqoursとしての物語
・Aqours
セカイの物語
・沼津のオトナたち(保護者含む)
・マリーズマザー

まずは、セカイについてフォーカスしてみる。
と、どうだろう。今までの物語になかったファクターとして、サンシャイン!!の中には、数多くのオトナたちが存在する。
そして、極めつけはマリーズマザーだ。

マリーズマザーは、劇場版の中で小原鞠莉さんを結婚させようと画策する。
典型的なヒールを演じるが、何一つ間違ったことは言っていなかった。
手段はどうあれ、という話ではあるが。

鞠莉さんが家を飛び出して、浦の星女学院の理事長になり、海外の卒業資格も逃した上に、学校も救えなかったことを叱責し、小原家の令嬢としての振る舞いを求めるのだ。
親としては当然のことである。
娘の将来を思って、こうあれかしと言う理想を押し付けるのは親の仕事というものだ。
良し悪しはともかく、私にとっては娘を想う母に見えた。
そんな母としては、
「スクールアイドルなどくだらない」
と一蹴する権利があるだろう。受け入れられるかはともかく。

しかし、Hop ? step? Nonstop!のスペイン広場で、何も言わずに立ち去っていく。
それは、彼女から見て「スクールアイドル活動」の良し悪しであったり、Aqoursの良し悪しであったり、ラブライブ!の良し悪しではなく。
娘である鞠莉さんや、Aqoursのメンバーが、本気で、全力でスクールアイドルに取り組んでいる姿を見ることが出来たからだと、そう受け取る事ができる。
本気の失敗には価値があると知っているオトナだからこそ、娘のことを認めたのだろう。

Aqoursは何も成し得なかった。
でも、オトナ(≒セカイ)を納得させた。
それは、本気で全力で取り組んでいたからだ。
それはこうあって欲しいと願うオトナの物語なのだ。

そして、ラブライブの歴史とAqoursの歴史へ、物語は終局を迎えていく。
Saint SnowとAqoursのラブライブ延長戦である。

一つ言っておくと、これはSaint SnowとAqoursを描くことで、ごく一般的なスクールアイドルの描写を終わらせたのだ
詳細は割愛して、簡単に説明しよう。

*ラブライブ!
μ's ラブライブ優勝 解散
A-RISE ラブライブ敗退 継続
*ラブライブサンシャイン!!
Aqours ラブライブ優勝 継続
Saint Snow ラブライブ敗退 解散

この対比だけでもわかるが、
これは最後のメッセージとして受け取れる。
スクールアイドルは「こうあるべき」と願った我々やスクールアイドルたちへ、答えは一つではないというメッセージとして受け取れる。

無数のスクールアイドルがいたように、その終わり方も、答えも無数にある。
なまじ、μ'sというレジェンドが正解を示したように見えるから、その答えを追おうとしてしまう。

残酷だけど、天才は一握りだし、レジェンドになんかなれないで終わる。
でも、それが失敗ではないと、しかして成功でもないと。
この矛盾と葛藤を実に美しく表現したと思う。

この先の未来も、彼女たちは続いていくからこそ、
その矛盾と葛藤を抱えて生きる姿に、私は願いを感じざるを得ない。

それでも少女たちはセカイを生きる

今回はこのあたりで筆を置こうと思う。
つらつらと語ってしまったが、話をまとめると、

ラブライブ!は夢の物語である。
ラブライブ!サンシャイン!!は現実の物語である。
ラブライブ!シリーズは願いの物語である。

そう、私は結論を出した。
彼女たちを応援しない理由があるだろうか。いや、ない。

最後に、発端であるライブの話に戻ろう。
Aqoursの5th LoveLiveを見ている時に、ステージで輝く彼女たちを見て、
限られた時間の中で輝こうとする彼女たちが好きなのだと、
決して輝いていることが重要なのではないと、
当たり前のことなのだが、失念しがちだ。

それが苦難と絶望の道であったとしても、少女たちはセカイを生きることを選んだのだ。
だからこそ最大の敬意と、最高の謝辞を。
最後は、劇場版ラブライブ!サンシャイン!!Over the Rainbowから抜粋して締めようと思う。
本当にここまで読んでくれたんですか?
あなたにも最大の敬意と、最高の謝辞と、駄文の謝罪を。

だから! 
いつも始まりは0だった 
始まって一歩一歩前に進んで積み上げて 
でも気付くと0に戻っていて 
それでも一つ一つ積み上げてきた 
なんとかなるって、きっとなんとかなるって信じて 
それでも現実は厳しくて 
一番叶えたい願いは叶えられず 
また0に戻った気もしたけれど 
私達の中には色んな宝物が生まれていて 
それは絶対に消えないものだから

私も明日からセカイを生きる。

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