2023/9/29 演芸のお時間

今日は11時に起きた。昨日は一日が長すぎて、記憶がぼんやりした。
朝からいろんな芸人さんと話して、そのあともいろいろやって深夜まで起きていたので2日分動いていた。
12:30にはウーバーに出発した。

秋になり、さすがにウーバーの注文数は減っている。夏場は平日でも1時間3件は運んでいたのだが、今となっては1時間に2件運べるかどうかというところだ。
こう注文が少ない時は大都会上野駅周辺に向かう。お店が多いので注文が来やすい。上野に向かうとさっそく2件連なった注文がやってきた。なかなか注文が来ない状況であるから贅沢は言わずにこれを運ぶことにした。
北千住の方まで運んだ。すごい距離である。
ピザ、中華、寿司といったものは運んでもらうことが、店屋物という文化として根付いている。一方、ウーバーはどんなお店も運ぶということが売りであるから、「食べてみたいけど家から遠い」というニーズを満たしている。
遠いお店の注文は結構あるのだ。
上野は働いている人も食べている人も外国の方というお店が結構ある。そういった店は入りづらい。ウーバーであれば、家まで運んでくれる。これもまた一つのニーズを満たしている。
ウーバーでなければ怖くて絶対に入らないお店がたくさんある。

まずは上野の入りづらいお店から北千住に向かった。その後はつんつんと注文が来て、また上野に戻ってそこから浅草の北の方に行ってと北へ南へと振り回された。3時間で6件、きっちり1時間2件の配達だった。ああ、もっとお金が欲しい。

帰宅したのち、勢いよく支度して今度は町屋で笑組のゆたさんと、はやぶさ丸(ギャルから人気のコンビ)の笠生大収穫祭くんとの3人での「ほめ祭り」というライブである。
今日も楽しいライブとなった。

19時の開演で、まずはゆたさんの踊り、笠生くんの講談という伝統芸能からスタートした。
私は踊りについて何も知らない。しかし、人が踊っているというのは何とも非日常でおかしみがある。普段、踊っている人はいない。ヒップホップ、ブレイキン、クラブでのなんとなしのダンス、これらをやっている人を批判する気はないが、何が面白いのかは私は理解できていない。
ものすごく予防線を張れば、私が愚かであるからその面白さがわからないだけで、ストレートキャップにオーバーサイズの服を着ている高尚な文化をお持ちの方々にはたいへん面白いということは僭越ながら認めさせていただく。
今日のゆたさんが踊っていたようなものは見ていて面白い。普通のおじさんがクネクネする。これはフリとオチの関係にある。
不良っぽい格好の人が、不良っぽいダンスをする。これはフリとフリ、ボケとボケの関係である。普段は洋服を着て、スーツを着てパソコンを叩いている人が和装をしてクネクネする。これは笑いが生まれる構造である。

もっとお笑い寄りでなく考え、ケとハレの関係で見れば、普段の生活は穢れで踊る場面は晴れである。日本人が大好きな、お祭りになる。
一方どうだろう、ストリートのダンスはストリートという穢れ(普段の生活)でそのままの格好で踊る。踊りが普段の生活に入り込み、ダンスも穢れの一部になる。となれば、やはり心を動かされる祭りの感覚になるならば伝統的な踊りの方が面白いと思う。

だからなんだ。なんなんだ。

続いて、笠生くんの講談である。解散する直前に、だれも褒めてくれないからしっかり日記で書いてくださいと言われたので書かなければいけない。
私は江戸の文化にたいへん明るいことで有名であるから、私が褒めれば業界から引っ張りだこになること請け合いだ。どれくらい私が江戸文化に明るいかと問われれば、小学生の時にNHKで「お江戸でござる」という喜劇バラエティを数回見ていたほどだ。相当な明るさだ。

まず、台本をしっかりおぼえていたのが偉いと思った。一人喋りはセリフ量が多くなる。同じ時間をやるにしても普段の漫才と比べて文量が増えるのは当然である。そこに普段使い慣れない言葉遣いや言い回しとなるとこれは大変だ。

講談というのを私は今日、初めて見た。笠生くんはどこの一門にも属していないので、プロではない。プロではないが、達者な講談であった。今回披露されたのは「長い槍なの?短い槍なの?どっちが便利なの?」という松浦亜弥もびっくりな二者択一の話であった。場面によるだろうと思った。
この話は、豊臣秀吉がいかにして人を使うのかを示し、知恵があって将軍様としての才覚ありという話である。

物語では長い槍派は長い槍をもって、短い槍派は短い槍をもって、数日後に試合をして勝った方の槍の長さのものを使うことにする、というのを織田信長が決めるところから始まる。それぞれにずぶの素人の兵をつかせて、どのように兵を鍛えてくるのかをみてやろうということになる。
短い槍派の上島さんちのモンドさん(こっちの名前を憶えていなかったのでネットで調べた。間違っていたら失礼。)は短い期間ではあるが、せめてと槍の基礎をむりやり教え込んだ。
藤吉郎(後の秀吉)は短い期間で長い槍派(ややこしいな)を勝利に導くためには、槍の特訓ではないと判断し、豪華な食事を食べさせ、挨拶の練習だけをさせた。

さあ、試合の日となると、モンド軍は基礎を大事にしたことで兵は基礎に囚われカチコチの動き。一方、秀吉軍は唯一練習した挨拶をこなすことで信長からの評価を得る。槍も鍛えた上に挨拶も教え込んだと思わせた。
漫才でも姿勢が良ければ、ネタの台本だけでなく所作まで鍛えたのかとお客様には熱意があるように見える。実際の台本が「うんちが出た~」みたいなネタでも「姿勢まで気をつかう漫才師のネタであるから、相当な考えがあってのうんちが出たなのだろう」と思わせることができる。なんとも人たらしな秀吉である。

なんやかんやで基礎も何もなく槍を振り回した秀吉軍が勝利を納めた。モンドの選んだ、短い槍は使えないな。というところから、なんだか口うるさいが使い物にならない「モンドセレクション」という皮肉の効いた言葉が生まれたとされている。

という講談であったと記憶している。間違っていれば失礼しました。
この話はまず面白いと思った。秀吉ここにありといった、人心掌握の術が見える話である。
ただ、気になったのは「長い槍であるからこそ」「短い槍であるからこそ」が弱いのではないかと思った。長い槍を振り回すことで撹乱させた、という描写はあったが少し弱い気がする。

ちょっと漫才にしてみた。
A「今度、長い槍、短い槍で試合をやることにしたんやんか」
B「ええやん。ほんで?」
A「俺は長い方がええと思っててん」
B「ほうか~俺は短い槍やと思うなあ。どうやって勝つつもりなん?」
A「まず、飯たらふく食わせて志気を高めるんや」
B「あかんやん。もうすぐ試合なんやろ、短い間でも基礎ぐらいやらせとかな」
A「そのあと、挨拶の練習すんねん」
B「あかんやん。槍の練習しとらんやん。うちは基礎トレやらせとるで。」
A「そしたらもう試合やねん。」
B「いや、絶対こっちが勝つやろ。メシ食って挨拶しかしとらんで」
A「挨拶させたら信長めちゃよろこんどってウケたわ~」
B「信長なめんなや!ホトトギスにされるで。」(←うまいツッコミ)
A「試合始まるやろ。そしたら、うちの軍はもうなーんも槍の使い方しらんのよ。」
B「そらそやろな。うちの軍は基礎を覚えとるからすごいで、腰をどっしり据えて、肘を引いて、ヤーッと突くねん。かっこええで。」
A「そやけど、そこがあかんねん。かっこうばっかり気にして、戦場じゃあすぐ、ホトトギされるねんな」
B「ホトトギされるってなんやねん。まだ信長様なめとるやろ。」
A「お前がさきに言うたんやないか」
B「ホトトギされるは崩しすぎや、失礼や。」
A「話し戻すけど、うちの軍はすごいでとにかくもう突いたりせんのよ。やり振り回しとるねん。」
B「あかんあかん。そんな使い方あかんねん」
A「ほしたら、そっちのは基礎に囚われて動きが遅いが、こっちのは汚くても素早く動くんや。ほいで、先にメシ食わせてやる気出しとるからなんやかんや最後まで頑張ってくれるねん。そやから勝つねん。」
B「なるほどね。そこそこ納得できるなあ。」

と、こういった漫才になる。では、この漫才にオチをつけるとしたらどうだろうか。私が考えるとしたら、最初のテーマでどちらの長さの槍がいいかということから話し始めているのだから、そこを回収しなければいけない。

A「せやから、長い槍が勝つと思うんよ」
B「う~ん。待って、槍の長さ関係ないな。」
A「そやな。結局はワテがおるほうが強いんや」
B「キモッ!ええかげんにせえ。」

と、こうなる。やはりこの話は「長さ」で話を始めているのだから、そこを回収してもらいたい。ここをなんとか笠生くんには今後は作り直してオリジナル講談を作っていただきたい。

あ~、話が長くなった。書きながら食事をしたりしたが、それを含めても2時間以上書いている。もうやだ。もう今日はこれくらいにしよう。

ライブの後は会場のカフェで食事をして、帰宅した。へとへとで早く眠った。

今日面白いと思ったことは「今日も悪口はいわなかった。褒めた。」

こんなつらい人生。ここに空き缶を置いておきます。