2023/9/19 蝶のように舞い、日記のように刺す

今日は10時に起きた。最近は夜寝ていない。昨晩も6時ころに寝てこの時間に起きた。寝不足のくーちゃんだ。
今日は11時から、恒例の西日暮里ガストネタ作り会である。この会を一緒に構成するのは、めろんぱん稲倉という今後注目が高まっていく大物漫談家である。

11時に会場入りした。まだまだ太陽さんさん、暑い日が続く。これがいわゆるひとつの残暑である。
稲倉さんも むやみやたらと色黒である。これというのがお金がないひとは、色黒になる傾向がある。バイトに行くために外をうろつくからだ。アメリカでは貧困白人のことをレッドネックというスラングで呼ぶらしい。屋外で働くため首が赤く日焼けすることからそう呼ぶらしい。
では、私を含めた日焼けした貧困黄色人種は何と呼べばよかろうか。日焼けの色をそのまま呼ぶのは芸がない気がする。ブラックネック、ブラックアームなんていうのはそのままである。また、ブラックとは英語でそのまま黒色人種を指すことになるから現代アメリカではアンタッチャブルなワードになりつつある。ここでいうアンタッチャブルと言うのは、お笑い芸人さんのことでもないし Final Fantasy Xのバハムートの攻撃魔法のことでもない。

では、いかに呼ぶべきか。黄色の人間が日焼けしてるから、焼きバナナ、焼きコーン、焼きパプリカなんて呼べば、少し皮肉めいていて新たなスラングになるかもしれない。
しかし日本人であるならば、日本の黄色いもので例えたい。日本の黄色と言えば、秋の紅葉(こうよう)などよいではないか。これから銀杏(いちょう)がきれいになってくる。紅葉も銀杏も モミジ、ギンナンと読むことができるのはなんとも面倒である。

銀杏の落ち葉が黄色く綺麗だ。銀杏が秋を代表する景色なら、その景色につきものなのはその銀杏の木の下の、くっさいギンナンである。我々、貧困黄色人種はギンナンではないか。汗をかき臭くなり、踏みつぶされ、そして嫌われる。ああ、なんとも我々はギンナンである。

このようにどうでもいい意見をこねくり回すときと言うのは、決まって書くことが無い時である。
今日はネタ作りをずっとしていたので書くことが無いのである。何か書くことはあるだろうか。ああ、そういえばこのネタ作り会ではいつも私はかき氷やパフェなどの甘いやつとドリンクバーで済ませていた。
しかし今日はランチメニューを注文した。ほらこれくらいしか書くことが無いのだ。どうでもよかろう。

今日もネタ作りをおこなった。主に稲倉さんのネタである。私のネタ作りお手伝いの際の角度は芸人さんの思う面白いと思うものをわかりやすく伝える方法はこうじゃないか、という視点である。
決して、私がやりたいけどもできないようなキテレツなネタをやるようにコントロールしているなんてことはしていない。稲倉さんが、こういう感じでと感覚でおっしゃるのでそれを画にするのだ。
私のような凡夫では考えつかないものを芸人さんは考えているから、それをお客様にも分かるような表現方法を考え、伝えてみることが仕事である。

一方、私のネタはどうするべきか。ただ面白いだけという、いかんともし難い状況だ。お笑いを志す人ならば、このただ面白いだけのネタと言うものが何を指しているのかはお察しであろう。
あまりにいい子ちゃん、特徴のない漫才と言うことであり、タレントとしての個性が足りないのだ。では、私らしい漫才とは何だろうか。

今年に入って毎日書いているこの日記には私らしさのエッセンスがふんだんに入っているのではないかと思う。そもそもを考えれば、この日記はそれを見つけるために始めたのだった。日々、私が考えていることを包み隠さず書いてみることで、私という人間が現れるのではないかという目論見である。

稲倉さんはときおり、この日記を読んでくださっているようなので、その点を聞いてみる。「どうでもいいことをぐちぐち細かく分解して考えている」という意見をいただいた。
よし、ではこの日記をそのまま漫才にしてみようと思う。今週末の事務所のネタ見せと新ネタライブは、これをやってみようと思う。

日記を書くように漫才を書いてみようと思う。これが私らしさの一端が現れた漫才になるかもしれない。ありがたいことに5年ほど漫才をさせていただいたことで、漫才の作り方の基礎的なものはある程度身に着けていると自負している。これを応用して私の意見を漫才にしていきたい。

方向は決まった。でも、まだ一行もネタは書けていない。

16:30頃に帰宅して昼寝した。晩御飯は昨晩作ったグリーンカレーと紅しょうがの天ぷらを作った。カレーの油と天ぷらの油で胃もたれした。ざんねん。

今日面白いと思ったことは「日記のように漫才を書くことにした。たぶんすべります!これでもくらえ!」

こんなつらい人生。ここに空き缶を置いておきます。