2023/4/14 漫才の神、音楽の神、濡れ神

今日は9時前くらいに起きた。11:30から東洋館で漫才大行進の当番だ。
当番をやるといろんな心動かされることが起きる。すべてを書ききれないが、すこしずつ書いていく。

11:35ころに東洋館に到着する。今日の当番はK氏こと、はやぶさ丸 笠生くんと我々の3人だ。K氏は先に到着をしてもろもろ準備してくれていた。今日はK氏がたくさん動いてくれたので楽ちんであった。とても感謝したい。お陰様で、たくさんの楽しいことがあった。

まず11:50頃から12:25くらいにかけてポッドキャストを録音した。すでにアップロードしてくれているので聞いてみてほしい。
昨日、私は田川くんにそれはよくないぞという注意をした。どうやら彼なりに反省していたようだ。おたがいに何か考えることがあったものと思う。気持ちのいいこと悪いこと、どれだけの感情を体験したかと言うことが人間の価値の一つの指標だと私は考える。引き続き悩んでいくべきだ。

漫才56号の堀江さんとすこし話した。漫才についていろいろと語り合う。堀江さんもいろいろと悩んでいるようだった。それでいいのだ。そのまま行けばいい。悩み続け、進んだ先に自分なりの正解が待っていると私は考える。

堀江さんは本来信仰すべき漫才の神様に背を向けて、ものまねの神様を信仰した。ものまねの神様を信仰する気持ちを否定はしない。しかし私としてはどれだけ悩んでも解決しない漫才についての問題がこの世にはあって、漫才56号もまた悩んでいる。そのなかで堀江さんはお笑いライブで漫才を披露した後のエンディングで物まねを披露して、ちんちんにすべったと伝え聞く。
漫才の神様、モノマネの神様、どちらにも失礼なことをしていないかという気持ちが私の中に浮かんでいた。漫才の神様もモノマネの神様も懐が深く誰にでも門戸を開いてくれていることだろう。ただし、生半可な気持ちで信仰されては神様もやりがいがない。漫才の神は堀江さんの自転車を盗むことで、あなたはどちらの神を信仰するのかと問いかけているのではないか。んなこたない。単に中野の治安がまずいというだけのことだ。

そのあと、今日もちょっと東洋館がピリついた空気になることがあった。山椒が効いていた。もう、みんな楽しくやれたらいいのにね。このあときゅーぴぃ(きんぶら)さんと漫才の話をしたときに、漫才師なんてもとから変人が集まって変なことをするのを見てもらう場所なのになにを真剣に考えてんだなんてことを思ったものだがまさにそういうことだ。
漫才師は自身を厳しく律することは必要だと思うが、他者を律するというのはなんか私の中でうまく落とし込めていない。この件はまあ、胸にしまうことにする。

そんなことも考えているタイミングで金谷ヒデユキさんがいらした。金谷さんはこの日記の熱心な読者でいらっしゃる。以前に投稿した漫才と音楽の関係性に対する私の考えをまとめた記事について共感してくださっていた。
金谷さんと言えば替え歌を生業としている。まさにお笑い×音楽の先駆者と言える。そのかたに共感していただけたのは私としても自信をもってこの理論を振りかざしていける。
金谷さんは「俺のネタもAメロ、Bメロ、サビとやっていかねば」といったことをおっしゃった。なるほど10分という時間は、大衆に人気のあるポップスにしては長すぎる。もし、ミュージシャンに10分の舞台を与えれば4分程度の楽曲を二曲歌う、もしくは歌うのは一曲だけで、その歌に込めた思いを語って終わるだろう。となると、ミュージシャンの面も持つ金谷さんにとって10分、15分の舞台の使い方というのはかなり考えてらっしゃるのではないか。
今回、金谷さんがおっしゃったことをうけて私なりに考えてみた。金谷さんは10分の持ち時間の中で数曲を披露するが、舞台を一つの曲に見立てて、楽曲のチョイスと順番でもって披露するということをしていると見た。音楽、演芸どちらにも疎い私の中では、10~15分となるとアドリブを含むジャズ、もしくはクラシック音楽のような一曲が正解の内の一つと考えていたのだが、それはあまりにも短絡的な考えであったと反省した。

仮に武田鉄矢氏に15分ほどの出番が与えられたとする。
私が武田鉄矢なら、簡単に挨拶をしたあとにまずは「人として」を歌い、お客様の心をつかむ。金八先生撮影中のエピソードと当時の自戒の言葉なんかをしゃべりつつ、世間にはお調子に乗った男がおおいとですよ!と言った後、「あんたが大将」を歌う。
でもね、どれだけ調子にのった男でも最後に母ちゃんには敵わないんです。なんて言った後「母に捧げるバラード」を歌う。
目を細め、潤ませる武田鉄矢。そのまま緞帳がゆっくり降りていく。緞帳が降りきるまで「ありがとう!ありがとう!」と鉄矢は会場に声をかけ続ける。

このような構成でどうだろうか。曲は三曲披露したが一つのステージが歌のように連なっていく。こういったことを金谷さんは毎日されているのだ。すごいことだ。金谷さんは「今日の舞台は全部Aメロだったな。」とおっしゃった。うまいねえ👍

さてとその後、K氏のコンビ、はやぶさ丸のお二人がネタの出番になった。あらためてどのようにやってるのかと思って拝見した。O氏の挙動があきらかにおかしいのだ。そこがもう笑ってしまった。K氏も偏屈な男だが、O氏もまた変なやつだ。純粋に変なやつなのだ。
漫才においてどうしてもぶちあたる壁で、台本でやり取りをしている漫才をいかにその場で立ち話をしているようにみせるか、というものがある。
仮に10分間、台本なしでやりとりすればただのフリートークであり、自由な思想は入りやすいが笑いが起きにくい。台本でがちがちに固めれば、自分の考えた面白いと思うことを入れやすいが、作り物感が強く笑いが起きにくい。となると、台本があるのだが自由さを演出するということが必要になる。
では、O氏はどうだろうか。O氏の挙動ははっきり言えば演技っぽい。ただ、それは彼にとっての普通なのだ。普段、舞台以外で会う時もO氏は舞台上と同様、カクカクと動き、笑っているのか悲しんでいるのかわからない顔で人の顔をじぃっと見ている。舞台上でO氏を見ると、緊張しちゃっているのかなと思ってしまうが、普段からあの状態だから不思議なものだ。つまりは舞台上でO氏は自分らしさを表現できているのだが、それがたまたまお客さんの中にある、若い人が緊張して台本を間違えないように頑張っている姿とリンクしており、演技をしているように見える場面がある。でも、それもO氏の持つ才能だからいいのだろうな。うまくその場にいらっしゃるお客様にそれを伝えられれば何倍にも笑いが増していくのではないか。

はやぶさ丸の次は笑組のお二人だった。ゆたさんは出番前に、私にあるメッセージをくださった。これがまたなんとも粋だった。「私は○○と言う方に言われたことがあるんだよ○○ってね」という表現の仕方。これだけを言って去っていくのだ。これについては多くを語るほうが野暮と言うもの。これくらいにしておく。
ただ、出番後に面白い事件があった。舞台上でネタを終えて袖にお二人が戻ってくる。かずおさんは自身の腕をぱんっぱんっと叩く。つまりは「見たか俺たちの漫才を。腕が違うだろ。」というギャグである。
これ自体はよくやってらっしゃることなのだが次の出番の、もりさんがかずおさんが腕を叩いた瞬間に「うわあ!」と驚いて身じろぎしていた。そんなに驚かねえだろと私は笑ってしまった。

続いてきんぶらさんの出番だ。きゅーぴぃさんとまたいろんな話をする。漫才、内輪ネタに行き過ぎてしまう論を熱く語る。きゅーぴぃさんとしては、事務所ライブ、東洋館以外の場所でもっと新ネタを試していきたいと語っていた。
ちょっと感動してしまった。私の知る限りではきんぶらさんは我々の入会した時からずっと同じネタをやっていたので、てっきりもうこのままの生活が続けば十分という感覚なのかと思っていた。別にそれが悪いということではなく、私はその考えも一つの答えではあると思っている。ただ、きゅーぴぃさんはもっと漫才がおもしろくなりたいという気持ちがあったのだ。感動した。小泉元総理が一緒にいれば、私と同じことを思っていることだろう。

そんな話をしているとうたじ師匠が出番を終えて袖に戻ってきた。きゅーぴぃさんの姿を見て「乳首がぬれてるねぇ」と言った。面白すぎて爆笑してしまった。そのあとスタッフの方にうるさすぎると怒られた。

さてと、かなり話が長くなった。まいった。
このあと、ロケット団さんと心温まる話もしたのだが、今回は見送っておこう。

家に帰って食事をすると眠たくなってしまい、21時になった。今日はこのまま家にいることにした。ウーバーをやろうと思っていたができなかったので罪滅ぼしも兼ねて「フィールドオブドリームス」を見た。めちゃんこ良かった。映画を見ていくうちにああ、東洋館の舞台はフィールドオブドリームスだ。球場なのだなと思ったのだが、もう眠すぎるので寝ることにした。

また明日にでも感想は書けたら書こう。おやすみなさい!いま3:30。

今日面白いと思ったことは「漫才の神は漫才師の行動をご覧になっている。自分を律せよ。」

こんなつらい人生。ここに空き缶を置いておきます。