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読むための場所

新宿から西に数駅行った初台という街に、「fuzkue」はある。無類の読書好きであるところの店主の阿久津さんがつくった「本の読める店」だ。業態としてはいわゆるカフェ・バーだが、とてもそんなくくり方はできない。ウェブサイトを見ればすぐ分かるように、本を読むための店ですよということがこれでもかと掲げられていて、ひとりならではの時間を豊かに過ごしたい人にとっての至高の環境であるための配慮と、それについての試みが徹底的に書かれている。「本の読める店」という詞書は本当に言い得て妙だなあと思う(こうなるまでの紆余曲折もぜひ、fuzkueのよみものから読んでみてほしい)。

忙しさにかまけてだいぶご無沙汰してしまったのだけれど、店主の阿久津さんが日々書いている読書日記をまとめた本『読書の日記』がnumabooksから刊行されたこともあって、行くならいまだと思い立って、先週ぐらいに行ってきた。
それは結構な雨の日の夜で、それでもお客さんが5〜6人居たと思う。お気に入りの、カウンターの一番奥の席が空いていたのでそこに座って、これも大好きな鶏ハムのサンドイッチと、風邪気味だったのでハーブティーを頼んだ。ちなみにオーダーは普通に伝えに行って良いが、メモ紙に書いて渡すのがなんとなく好きでそうしている。

いままでは読む本とか、書きたいこととか考えたいこととか、たいてい決めてから行っていたのだけれど、そういう準備は何もせずに訪れたので、fuzkueの棚から、網野善彦『無縁・公界・楽: 日本中世の自由と平和(平凡社ライブラリー)』を見つけて読んだ。
中世において、特定の土地や制度とは無縁に生きる職能民たちが自らつくりあげた公界では、そこが「自由な」場であるためにこそ厳密なルールがあったという。また伊勢の例では、近世においても山田三方による街の自治運営があり、会員制図書館ともいえる豊宮崎文庫の存在があった。
話が飛躍しすぎかもしれないが現代に置き換えれば、このしがらみだらけの大都会東京のなかで、fuzkueはまさに、ひとりで本を読みたい人たちのためのアジールともなる場所なんだなあと思うと愉快だった(※ここで言うところの「読む」というのは紙の本に限らず、自らのなかに起こる対話のことも指す。読むことについて思うことはまた別のnoteにまとめたい)。こんな感想は、fuzkueで読んだからこそ出てきたのだとも思った。


自分は昔からあれこれやりたい性質だが、不思議と本だけは通読する派だった。一冊を途中で読み止めることができなかったし、シリーズものは次から次へと読まないと気がすまなかった。いつしか(書店で働き始めてからもう10年になろうとしているのに)本をそれほど読まなくなって、逆に通読することができなくなっていることに愕然としたまま今に至る(書くこと、も同じだ)。
つまみ読みが悪いわけではなくて、ある意味では「書店員の読みかた」に慣れたからと言えるかもしれないけれども、やはり一冊の本に浸りきる体験は稀有なものだ。『無縁・公界・楽』を(補注の手前までだが)なんとか読み切って、改めてそう思った。

小さな看板。謎のビルの2階。心地よく漂うBGM。絶妙な席間隔。本のように分厚いメニュー。明るすぎず暗すぎない照明。美味しい食べものと飲みもの。並べられた蔵書。そして此処に集う本を読む人たち。……あらゆる要素がfuzkueを、読むための場所にしている。
これらすべてがあの飄々とした、店主の阿久津さんの采配によってつくりあげられてきたのだ。『読書の日記』はそんな阿久津さんの初の著書。読書の歓びに存分に浸りながら、読みすすめていきたい。

※ちなみに阿久津さんが「本を読む人、ストラグルする人」で書かれているところのこの感じを、僕は「散策者」と定義している。


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