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まっとうな声を聴くこと

2019/7/13 夕方。
渋谷のハチ公口で、れいわ新選組の選挙街宣に遭遇。多くの人でごった返している夕方の渋谷駅には、あまりにも音が溢れすぎていた。

かつて音楽は多くの人の意思や感情を、時にはゆるやかに時には激しく、共有させるものだった。街に出れば流行の音楽も、声にならない声も、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられながらもそれぞれが、谷底から湧く歌のように響いていたらしい。
それが今はどうしたと言うのだろう。

この街はまさに現代社会の縮図のような場所だ。川のように流れる自動車の騒音や人々の喧騒。多くのテレビやモニターから絶え間なく刷り込まれる広告。人生を消費させるための装飾をほどこした数多くの店……。
そんな街で働くうちに、小さな声どころか大きな声すらも「楽しそうな音」に、嬌声や嘲笑にかきけされてしまうことに慣らされていく。大いなる目的のために、アングラを塗りつぶしながら「再開発」されたキレイめな都市に、自分もまた組み込まれている。
リアルな街だけではない。SNSという、ひと昔前には考えられなかった便利なツールが生まれて、いつでも自由に音も声も聞くことができるようになったはず。それなのにどうして、まっとうな声を聞き分けるだけでも大変な時代になってしまったのだろうか。

彼らは「政治家」ではない。政治の世界においては素人だし新参者だ。しかし少なくともこの社会で生きていこうとする、ひとりの当事者として、真剣に政治を考え声を上げている。
こうして声を上げる人がいるからこそ、それぞれの困りごとが人それぞれに、実際に存在していることがわかる。党や肩書きには関係なく、そうした人たちがいることを知ってほしい。彼らの声には確かさがある。どんなに雑音に包まれた街の中でも、聴こうとする者へ届く力がある。

全国各地、どの党だろうとどんな立場だろうと、それぞれが想い抱える社会問題を言葉にするために、声を上げている人たちが居る。
どうかまっとうな声を聴いてほしい。経られた想いを読みとってほしい。全てはあなたがあなたであり得るための、世界を選ぶための術なのだ。
人生は選択の連続だからこそ。今を選ぶことが、未来をつくる。


参議院選挙 投票は 2019年 7月21日 (日)まで

→ れいわ新選組 公式
→ れいわ新選組 政見放送
→ 7/13 渋谷駅ハチ公前 街頭演説



選ばれし声が幕をあけること

2019/7/22 朝。

投開票が終わり、れいわ新選組は2議席を獲得した。山本太郎は比例代表として最多の約97万票以上をあつめ、彼が4月末にひとりで旗揚げしたれいわ新選組自体にも120万を超える票が全国から集まった。
山本太郎自身は落選したものの、今回から始まった特定枠を活用して重度障害者である2名を国会へ送り込み、合計で4.5%の票を集めて政党要件を確保した。
選挙直前には3億を集めていた寄付金も、本日までに4億を超えたという。国会に当事者を送り込み風穴をあけることが彼らの戦略であったならば、それは見事に成功したのかもしれない。

戦後日本の政治は、1990年代半ば前後と2010年前後の数年ずつを除いて、そのほとんどが自民党を中心とする体制によって成り立ってきた。これは端的に言えば国民が、現状維持とマジョリティにとっての安定こそを、政治に求めてきたことのあらわれである。
記憶に新しいところだと2017年に枝野幸男が立ち上げた際の立憲民主党も、2019年の山本太郎によるれいわ新選組の旗揚げも、それが少しでも時代の節目のようになったのは、特定の組織や宗教によるものでも大衆を煽る態度からでもなく、ひとりひとりの心に向かって当事者の声を訴えていった結果なのだと思う。
それがいわゆるポピュリズムだとの批判ははっきり言って筋違いだと思う一方で、決してトランプのようなやり方を真似るべきでは無い。なによりも今回の選挙においてれいわの候補者とその支持者は「大衆」ではなく「当事者」として、今回の選挙に臨んだように思うからだ。

彼らのあげたまっとうな声が不安や疑問を抱える人たちを奮いおこし、多くの人が当事者として政治を捉えはじめ、いまこそ真剣に考えて行動しなければと立ち上がったからこそ、戦後2番目の低投票率にもかかわらず、16年の参院選と比べると自・公が合わせて400万票近くを落とし、れいわや立憲その他の野党候補が躍進する結果となったのだろう。
この「結果」をもって、十数年かけて歪んできた国のあり方を、旧い慣習と常識から抜け出せない社会を、不和な時代の流れを、私たち自身が変えていくための確かな一歩と捉えて、未来への過程を歩んでいかなければならない。

もちろん壁は高く厚い。だが障害をもつお二人の当選によってようやく、今まで気づきもしなかった/ずっと見て見ぬふりをしていた多くの壁が、可視化されていくだろう。ここ数年のうちでも、例えばジェンダー、LGBT、労働、貧困、パワハラやセクハラ……、多くの当事者が声を上げてきたことが、政治の世界の外から内から厳しい現実をつきつけてきたようにだ。
同じように、障害者に対する健常者からの「配慮」や「思いやり」ではなく、当事者として自身が生きる社会のルールについて意見を言うことができるようになる。それが国会での話だからこそなおさら、社会や私たちの心の中にもある壁が根底の部分からあらわになっていくはずだ。

一方でこうして、あえて波風を立てていくことを、「大衆」は特に嫌う傾向が強い。当事者のなかでも、そっとしておいてくれという人もきっと多いだろうし、もちろん今まで通りやっていく方がいい場合もあるだろう。
しかし今や、同調を求める空気はむしろ濃くなっていて、政治やメディアやSNS上でも嘘とフェイクがまかり通り、何が真実なのか見えづらい時代でもある。かつてこうした空気が蔓延した「結果」として、この国が大きな戦争を起こしたことを忘れてはならないし、問題は常にマジョリティの側にあるのだから。

今問われているのは、私たちをとりまく様々な壁、あらゆる差別やヘイト、欺瞞と抑圧、不和な時代の流れに対して、私たち自身が声をあげていくのか無視し続けるのか、その態度そのものだ。この社会を構成する私たち自身の手で、政治の場から世界をまっとうな方向に変えようとする人を先頭に立たせなければならない。旧体制との正面からの戦いの、その幕はすでにあがっている。

散策舎は今後も、日々を「散策する」態度を大切にして、本屋としてできる限りのことをやっていく。
本を読んで考えることと心の動き、そのことで得られる学びによって、私たち自身がより確かな判断をくだし、よりよい未来を選択していけるように。
本を介した対話とつながりによって、真の民主主義の灯火をもっともっと大きくしていけるように。
これからの日々を、皆で確かに歩むために。

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