見出し画像

感じた違和感を言葉にして整理して解き放つための作業

昨今の禍のなか、いろいろな方からメッセージをいただく。

励まし、労い、いたわりの温かい言葉。

本当にすべて、ありがたい。

終わりの見えない窮屈な状況にあるなかで、互いに頑張ろうと互いに祈りながら。

そんなやりとりのなかのひとつに、「ここだけの話だけど、、、」で切り出された言葉がずっと心に引っ掛かっていた。

「今回の件で、地球が綺麗になっているから悪いことばかりでもないと思う。」

「ウイルスが人間に環境破壊への警鐘を鳴らしている、だから我々は反省しなければ。」

そんなことを言っていた。

返信は不要ですと添えられたメッセージだったせいもあって、私は適当な絵文字だけで返した。

けれど時間が経つにつれ、返信不要とされたことにも何か「言い捨て」みたいな無責任さが潜んでいたようにも思えてきて、それは違うんじゃないかなっていう反論さえ許されなかったんだと卑屈な気持ちが湧いてきてしまった。

「ここだけの話だけど、、、」だったんだから、言った本人もよく分かっていて、誰彼となくではなく人を選んで、分かってくれそうな人に対してだけ発言していることは確かだろうと思うし、そうであってほしい。

それにしても、だ。

なんだろうか、この沸々と湧いてくる違和感。
最初は、自分が抱えている違和感が何なのかがよく分からなかった。

地球が。。。ねぇ。
確かにきったないよりかは、綺麗なほうがいい。
でも、何か違う。そうじゃない。

発言した人とのやりとりは既に穏便に幕を閉じていて、いまさら蒸し返すようなこともないんだから、あとは私のなかで整理するだけのこと、それも分かっていた。

で、しばらく、だいぶ長らくずっと考え続けて辿り着いたのは、今回のウイルスにまつわる出来事を天災とみなすのか、それとも人災と捉えるのか、そこには大きな隔たりがあるのだと気付いた。

私は研究者でも何でもないけれど今回の騒動は間違いなく「人災」だと思っている。凡人の私にも収集できるレベルの情報と疑心と直感だけが根拠といえばそれまでだけれど、ウイルスが自然を代表して私達に何かを訴えてくるとか、そんなことは無い!と全力で否定したい気持ちでいる。

人工的に作り出された可能性が非常に高いウイルスが事故もしくは事故を装った故意によって放たれ、世界中の人々が全停止を余儀なくされ、日常が奪われ、変革が求められている。倒産したり破産したり仕事を失って自殺を考えてしまう人がいて、感染せずとも不安や恐怖に蝕まれて心を病んでしまう人がたくさんいて、最前線のところでどの命を生かすか究極の選択を迫られ、心を痛めながら必死に懸命に働いている人達がいる。

テレビのニュースもインターネット上に公開される情報も、マスメディアに都合のよいことだけに絞られて演出がなされ、異議はデマとして扱われ、混乱を招くデマを蔓延させない為という正義名分によって検閲、情報の操作がまかり通り、疑わしき情報は消去されていく。

そして、このウイルスの開発に携わった、世界中でたった数人であろう人達は、もちろん知っていたのだ。
世界がいまたどっている過程を、陥ってゆく状況を。きっと、ほぼすべてが想定内で、中国の工場群が全停止すれば、大気汚染が軽減することなんて勿論のこと期待していたはず。

だから、今回の非常事態によって大気汚染が減少したことは素晴らしいメリットだなんて、ましてや人間のエゴによって破壊された自然(ウイルス)が警鐘を鳴らしているから反省しなければならないなんて、とんでもない言葉なのだ。

こんなことを書けば、偏った情報に惑わされてるとか、
頭がオカシイ類に分類されてしまうことも承知のうえで。

ウイルスっていう名の付いた武器によって人間が人間に攻撃されるっていう新しい形の戦争の真っ最中に、自然環境が〜とか地球が〜なんて呑気もいいとこだし、「いや、オレにも落ち度あったから攻撃されても仕方ないとこあるよな」なんて、「ここだけの話だけど、、、」であっても言わなくていいし、ちょマジ勘弁してよ。。。というのが私の本音なのだ。

かといって、私だって今回の非常事態が、どこか何かでこれまでの日常では得難かった良いものを生み出したと思っていることも実際にあるのだから、地球環境の改善に喜ぶなんてとんでもない!なんて言えた立場でもないのも確か。

例えば、家族で過ごす時間が増えて楽しいなぁとか、そんな幸せは噛み締めている。メリットは一切何も無いといえば、嘘になる。
生き延びるため希望を見失わないように、苦境のなかに小さな幸せを見出すことは必要だとも思っている。

どんな人にもそれぞれ考えがある。どんなことを考えるかは自由であるべきで、そして何を言ってもいいのだ。

今回書きたかったのは、受け取った言葉に違和感を感じたので、その原因を探って心を整理してみたら、こんなことでしたっていう、その部分。作業。

事象の捉え方は、人それぞれであって見えないけれど大きな隔たりがあること。それを再認識したということ。

『世界』はみんな、それぞれ違う。

間違っても私が何かしら世間に対して警鐘を鳴らしめようとしているとか、ましてやウイルスが人工である説に賛同や情報の拡散をもとめるようなものではなく。

そして、人災だろうが天災だろうが、生き延びていく。
そのことに何の違いもないから、大丈夫。

さぁ、明日も楽しく家にこもろう!
今日も元気に生きた私、家族、ありがとう。

おやすみなさい。。。zzz

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?