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親密さのあるお店

20歳過ぎの頃、ヨーロッパを旅していて、いまは閉店してしまったCOLETTEなど各地でいろんなお店を見て回ったりした。その時、自分にとって圧倒的だったお店がミラノで寄った10 Corso Comoである。とにかく好きになった。エントラスの緑はウェルカムされている安心感と何が待っているんだろうといった間があり、脇でカフェしている人の談笑を聞きながら店内に入る。

”お店” ”商品”といった整然とした感じはなく、無造作にも思えるように並べられた商品は、お店というより生活の中にあるようだし、何よりハイブランドが混在された状態に驚きのようなものを感じつつ妙な納得感を思ったりした。階段の踊り場のようなところで川久保玲さんの小さな企画展のようなものもあり誇らしい気分になったり(日本人…)。

いま思うと、10 Corso Comoで得た体験というのは、モノとの心理的な距離の近さであり”親密さ”だったんじゃないかと思う。とても近い存在として衣服を感じ、手に取り、買う買わない(買えない)より先に、よいモノに触れられた充足感を得られたんだと思う。実際、その時はオリジナルの時計を記念的に買ったくらい。

そもそもの旅の高揚感とか、海外という目新しさとかあったかもしれないけど、差し引いてもその親密さは衣服に対する意欲を与えてくれる場所だった。自分にとって今まででも1番よい衣服との出会いにおける体験だったと思う。もう随分と行ってないけど、今行くと何を思うんだろう。

いまは、衣服と人の距離が”金額”という単一的な尺度にあまりにも依存している。高いか/安いか、が前提としての分岐となっていて、その上でお店も選ばれ商品も選ばれている。モノに触れたり感じたりすることで捉える良し悪しよりも、前提とする金額がその良し悪しになっているように思える。つくる側が売ることを目的にしたとき、買い手側も買える買えないを先に置くようになったのかもしれない。

ネット上だと、”価格帯の設定”や”安い順に並べる”、は実際よく使われる。リアルでも価格帯の二極化がまんま反映されているように感じる。そんな中、デザイナー自身がやっている一般向けの受注会が人気あることや、ECサイトがメディア化したりインスタグラム越しにダイレクトに購入していく流れは、商品とどう出会い、体験するかの模索なんだと思う。

そういえば、アパレル不況と言われる中で複数ブランドの立ち上げに成功させていたある人から、「国内のアパレル不況は気にしていない、マクロが問題ではなく、ミクロであるお店の問題である。お店に来てもらってまで対価を払う理由は感動を渡せるか。あまりにもそれをやらない人が多すぎる。」というようなことを言っていた。

本来、モノの良さはとても個人的なものであると思う。私にとってこれがいいは、あなたにとってもこれがいいではないはずである。そういったこと自体がもう面倒なことにになってしまっているのかなー。モノを感じる瞬間がどうか増えていってほしいと思うし、そこに感動があるような場が増えてほしい。

今のところ残念ながら私は、インターネットの世界で10 Corso Comoのような体験は得られていないし、リアルのお店においてもそういった体験はなかなかできていない。あえていうと、美術館で展示を鑑賞した後に思わずその併設ショップで何かを購入するような体験は近いかもしれない。モノ自体にまずどう接するか、とても自然な形で、親密さのもてる場として。

これからのお店は体験だとよくいうし、そう思う。カフェが併設されたり、無人店舗になったり、VRでエンタメと融合されたり、いろんな取り組みが試されている。ただ、1番大切なことは、モノ自体の持つ良さをどう引き出し、感じてもらうか、そしてそれが大なり小なり感動できるか、ということだとあたりまえの話かもだけどあらためて思う。衣服の世界でクリエイションの復権を考えるとき、その出口としてのお店(オンラインもリアルも)のあり方はとても大切なものだと思っている。

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