さよならおさる君。またね、


私のクラスにまさる君という男の子が転校してきたのは
小学校3年か4年に上がりたての、春の頃だった。

他の男の子より頭1つ分は高いであろう背。恥ずかしそうに少し丸めた広い肩幅。焼きたてのパンみたいにつやつやの赤い頬。上級生並の図体にやや圧倒されたが、彼の照れくさそうにはにかんだ自己紹介に、みんながみんな、すぐに優しい子だと分かった。

まさる君と仲良くなろうと、私たちが最初に起こしたアクションはあだ名をつけること。

坊主頭で、きれいに開いた扇のように大きな耳が真っすぐとこちらを向いていたので、満場一致で「おさる」になった。

おさる君は私のいるグループと一番の仲良しになった。
朝礼までのわずかな時間、体育のグループの授業、休み時間と、一緒に居られる時間はいつも過ごした。みんな、もっともっと仲良くなりたかったのだ。

そんなある日、彼が転校してきてから2、3週間ほど経った頃だろうか。その場の流れで初めてお家まで見送ることに。

「おさる君、ばいばーい!」「ばいばーい!」

彼が玄関に入るところまで門の向こう側から見届けて、ランドセルをひるがえす。
そのタイミングで、閉じたドアがまた開いた。
首だけそちらに向けると、エプロンをつけた女の人がゆっくりおじぎをした。つられて頷くように頭を下げる。
顔をあげたその人はおさる君に似て背がすらっと高く、笑うというより微笑む感じがおさる君によく似ていて、そこに居たみんながみんな、すぐに優しいお母さんだと分かった。

(仲良くしてくれてありがとう)と言われた気がして照れくさく、アンニュイな表情のまま鼻息をむふむふしながら帰ったと思う。

その数日後。
悪気のない好意が誰かを悲しませることがあるんだと、私は子供ながらに学んだ。


いつもと変わらない朝の朝礼で、先生が言った。

「今後、まさる君のことをあだなで呼ぶのは止めるように」

何を言われているのか分からず、クエスチョンマークを浮かべた私は仲の良いこたちと目を合わせてすぐまさる君の方を見た。まさる君はいつものはにかんだ顔ではなく、申し訳なさそうに俯いて口を引き結んでいた。

混乱する私たちを見かねてか、先生が二言目を発した内容はこうだ。

「おさるというあだなが悪いわけじゃない。
 他のあだなでもなく、名前で呼んでほしい。
 大切につけた名前で呼んでください。と
 まさる君のお母さんから、みんなへのお願いです」

私はその時、あの時見たあの日のおさる君のお母さんを思い浮かべた。
お母さんというのは、この世で一番悲しませちゃいけない人だと、私はその頃にはなんとなく気が付いていて、じわじわと自分の母親のことを思った。思って、更に悲しくなった。

大切な友人の一番大事にしたい人を私は傷つけしまったんだ。

ちっとも悪気のないことでも、誰かを傷つけてしまうんだと
私は窓際のまさる君と同じように肩をすぼめた。

その朝礼の後、仲の良いこたちもクラスのみんなも彼を名前で呼んだ。

私も何度か呼んでみたけれど、なんだか距離ができたような気がして、
それに、名前を呼ぶたび、彼のお母さんが悲しむ姿を想像してしまい、私は彼の名を呼ばなくなった。

ねぇねぇと話しかけるようになり、一緒に過ごす時間もだんだん減って、
いつの間にか、まさる君は居なくなっていた。私の中から。
単にグループから居なくなったのか、転校してしまったのか正直もう思い出せない。

確かなのは、あの朝礼があった日から徐々にまさる君との間に距離を作って、記憶から忘れられるほどに疎遠になってしまったこと。

私は(もしかしたらまさる君も)、それを乗り越えられるほど大人でもなく
何事もなかったかのように全力で遊べるほど子どもにもなれなかったのかもしれない。

まさる君と名前を呼ぶ度、
お母さんを悲しませてしまったという重たい感情がついてきて
私は友人を失うことを選んでしまった。

あの頃に戻れたらなあ、と思うことは記憶力のよくない私には
そうそうないけれど、

もしできるなら、もう一度まさる君と友達になりたい。


やっほー、まさる君
そう笑って、また。




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