5分小話「午後十時半の言い訳」

ごちゃごちゃと細かいものの詰まったレターケースから、通帳を引っ張り出す。預金残高の記録は、3ヶ月前で止まっていた。あれから仕事も忙しかったし、特に無駄遣いもしていない。ここに書かれた数字だって、贅沢をしなければ十分一人でやっていける。それを確かめた指が、かすかに震える。

言い訳を、考えていた。
この部屋を出て行くための、言い訳。
なんだってわざわざ「言い訳」なんてネガティヴな言い方をするのかと聞かれたら、その理由がちっとも前向きじゃないから、としか言いようがない。
私たちは所謂お隣さんの幼馴染で、就職先が近いとか、それなら2人で割った方が広い部屋を安く借りられるとか、そんな色んな利害の一致で一緒に住んでいる。周りからは散々ありえないと言われたけれど、当の本人達は殆ど家族のようなもので、それ以上でもそれ以下でもなくて、寝起きの酷い顔も上手くもない鼻歌もたまの自棄食いも、素肌さえ、見られようが聞かれようが、あらゆることが今更だった。
それなのに、どうして。
どうして、気がついてしまったのだろう。

熱を出して寝込んだ時の優しい手。休日食事の支度をしてくれる、思っていたより頼もしい背中。私の泣き言を投げ出さずに聴いて、時々ちゃんと叱ってくれる声。どんなに仕事が大変でも──今日だってまだ帰ってこないのに、ただいまの言葉に添えてくれる小さな笑顔。当たり前のように思えたそのすべてを、こんなにも誇らしくいとおしく思っていたこと。
自分だけのものにしたいと、思ってしまったこと。どうして、今更。

ベットの上で膝を抱える。彼がこれまでの自分と同じ思いでいるならば、この恋の行く末は絶望的だ。このままそばにいたら、抱えた想いがいつ溢れてしまうとも限らない。拒絶されて離れるくらいなら、今のうちに出て行った方が、傷は浅くてすむ。新しい場所で、自分だけの部屋で、仕事に追われて暮らしていれば、もしかしたらこの気持ちだって忘れてしまえるかもしれない。

言い訳はまとまらないまま、玄関の鍵が開く音が響く。この部屋のドアの向こうにおかえりと声をかければ、きっとまた、疲れていても優しく応えてくれる。

ねえ、もしも。
もしもわたしがここを出ると言ったら、「好きな人ができたから」と言えたら。
あなたは、どんな顔をするだろう。

#超短編小説

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