穴 1

見渡す限りのアマポーラの野原。その中に、ふたつのあばら家が寄り添うようにしてあった。  ひとつは、黄色に塗られたトタン屋根、もうひとつのは、青だった。

黄色い屋根の方に住んでいるのは、ちょび髭の男だった。名前はインズ。彼が一番初めにこの野原に住みはじめたのだった。そのあとしばらくして現れたのがナナという太っちょ男だった。

ふたりは、毎朝顔を合わせると「おはよう」と挨拶したし、ときどき一緒に酒も飲んだが、別に取り立てて仲が良いという訳ではなかった。ようするに、ふたりとも、ひとりで野原に住みに来る男だったのだ。

ある日のこと、滅多に人の訪れない、この野原に、ひとりの老婆が現れた。老婆は、目の覚めるような赤い色の服を着ていた。彼女は青屋根のナナの小屋の前に立つと

「ごめん下さい。旅の者ですが、すっかり道に迷ってしまい、もう備えの食物も水もなくなってしまったのです。どうか、水ひと口、パン一切れでも結構ですから分けて頂けないでしょうか?」と言った。

その言葉を聞いたナナは、小屋の中でしばらくじっと息を潜めたまま考えていた。

どうしよう... 俺だって、このテーブルの上にある乾いたパンと革袋に入っている少しばかりの酒で、今日一日、何とかしのがなけりゃならないというのに。旅人には悪いが、ここはひとつ居留守を使わせてもらうことにしよう。

ナナは、そう決心して、息を殺して、老婆が立ち去るのを待った。

一方、外の老婆は、返答がないとみると別段気落ちした風でもなく、今度は隣のインズの小屋の前に立って、さっきと同じような調子で「ごめん下さい。」とやった。

小屋の中ではインズが食事の真っ最中だった。街に持っていった薪が幾らかの金になったので、今日は久々のご馳走だった。

と言っても、豆のスープにチーズとパンだけそれでもパンだけは、いつもより少し多く買うことが出来た。インズとて、決して裕福といえる暮らしをしている訳ではなかったのだ。

それでも、満腹感は、人を優しくするのか、インズは、「お入りよ。」と老婆を小屋の中に招き入れると、食べ残しのスープとチーズとパンをふるまった。

老婆は、本当に美味しそうに、それらを食べた。スープを一口飲んではニコニコ、チーズをかじってはニコニコ。その様子を見ているだけでインズは、何だか自分がすごく善い事をしたような気がして嬉しくなってしまった。

「ご馳走さまでした。」食べ終わると老婆はインズに向かって丁寧にお辞儀をした。つられてインズも老婆にお辞儀をしてしまった。

「本当に何と言ってよいやら。この御恩は、一生忘れませんよ。お礼に何かさしあげたいのですが見ての通りの貧乏お婆。逆さに振っても1ドウカドス出てはきません。それでも...」

老婆が続けて何か言いかけたところでインズは、慌てて手を振った。

「と、とんでもねえ!  お礼なんか端から期待しちゃいねえよ!」

そう、言いながらも果たして自分が、こんなにも優しい男だったのだろうかと不思議に思わざるをえないインズだった。 人間が嫌いでしょうがないから此処へ逃げて来たというのに...

しかし、この胸の内でトコトコと心地よく動いているものを消さぬ為にも決してこの老婆から礼など受け取れぬ。そう得心して、再び老婆に向かって言った。

「婆さん、長旅で、さぞ疲れてることだろうよ。どうだい、よかったら今晩うちに泊まっておゆきよ。なあに、こんなあばら屋だけど慣れりゃ中々おつなもんだよ。」

その申し出に老婆は溢れんばかりの笑みで答えたが

「いえいえ、それにはおよびませんよ。それより、ちょっとそこまでわたしについて来て下さいな。」

そう言ってインズの手を取った。しわだらけのか細い手を無下に振りほどくわけにもいかず、仕方なしにインズは老婆に導かれるままに小屋の外へ出た。

(つづく)

なんと、ありがたいことでしょう。あなたの、優しいお心に感謝