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宇宙よりも遠い場所

放映開始した数年前、一話を見ながら爆泣きして、ひたすら泣きながら3話くらいまで見て、流れていく日常に埋もれて、もう一回見出して泣きながら7話まで見て、また忙しさに埋もれて完全に忘れていたところにプライムビデオでひょこっと顔を出してくれて、なんの気無しに見始めたら開始十分くらいから声が出なくなるくらい涙が出て止まらなくて。そこからひたすら泣きながら一気に全話見て。

僕の涙腺の十割バッターですこのアニメ。

このアニメのストーリーをかいつまんで言うと、いろんな背景を抱えた(或いは、抱えていない)女子高生四人組が、ここではない何処かを目指し、日本から遙か1万4千キロの彼方、距離にすれば宇宙よりも遠い南極大陸へと青春の旅に出る、という物語です。

ここではない、どこか(Anywhere but Here)と言えば、モナ・シンプソンの同名の小説『ここではないどこかへ』(1986)や、文学界におけるロードノベル、あるいはロードムービーといったコンテクストが想起されます。本作においては、流されるままな日常を送り、何も成し遂げず、何者にもなれないままに高校が半分を過ぎようとすることに対しぼんやりとした不安を持った女の子が、南極に行くという奇妙かつ強烈なモチベーションを持った女の子と出合い、そこから「青春」をはじめてゆくーといった物語が展開されます。

さて、そのような作品がなぜ「オッサンホイホイ」となり僕をここまでひきつけ、恥ずかしげもなく涙を流させるのでしょうか。

きっと僕たちうだつの上がらないおじさんたちは、「誰か」になりたくて、きっと何者にもなれなかったからなのでしょう。
学校を卒業し、就職し、今までの延長線上に引かれたレールの上を歩き、どこかに踏み出すこともなく。自分がかつて憧れた物語の主役としてではなく、どこにでもいる普通の存在として日々を送る。

主人公の女の子は、ここではないどこかに行きたかった僕らで。
そしてその女の子が、小さく、けれど大きな選択を積み重ねて、ここではないどこかに向かってゆく。大きな夢を叶えてゆくことに、僕ら自身を重ねてゆくのでしょう。

そしてもう一つ。いや、それ以上にもう一つ。
この物語に出てくる「大人」の存在が、あまりにも「なりたかった僕ら」に重なるのです。
追いかけ続けているのです、彼らの夢を。描き続けて、努力しているのです。
当然、少女たちのジュブナイルであるこの物語においては、一部の大人を除き登場人物の内面が深く掘り下げられることはありません。しかしにじみ出てくのです。作り手が、僕らと同じ何者にもなれなくて、でも何者かを目指し続けたいおじさんたちが投影した、南極観測船に乗り込む、夢を追い続ける彼らの姿が。

彼らは様々なものを犠牲にして南極を、夢を目指して一歩一歩着実に進んでいきます。日本での生活や、職、金、地位、汗、涙。
彼らの乗り込む砕氷船は、不可能と言われる航路を進みます。己の力で、氷を割り砕き。氷が割れるまで、たとえ跳ね返されても、ちょっと後ろに戻って、勢いをつけて、何度でも、何度でも、何度でも。
周りに不可能だ、無理だ、やめろと言われ続けても、己と仲間を信じて、信じ抜いて。
やり遂げるのです。そして言うのです。「ざまあみろ」と。

砕氷船が氷を割り進む場面が、ここまで泣けるなんて夢にも思いませんでした。

日常に生きる僕らは非日常に憧れます。夢を追いたいと願っています。でも様々なしがらみにがんじがらめにされ、ここではないどこかへ行きたいと願ったままで潜水と息継ぎを繰り返す人生を送っています。

夢を持ち、描き、そのために進み続ける名もなきおじさんたち、
それは僕らがなりたい、ギリギリ手の届きそうな憧れなのかもしれません。

なりたい自分、叶えたい夢を見つけ出して、
今からでも遅くないから、ここではないどこかへと。
まずは一歩、踏み出してみようと感じる作品です。

最後まで読んでいただいてありがとうございます!