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人間性の回復ということ。個人的な覚書

9月からこっち、怒涛の如く忙しい日々を送っていました。

忙しいという字は心を亡くすと書きますが、まさにその通りで。どんどん視野は狭くなっていき、家族との関係はギスギスして、自分が疲れていることにすら気づけないような有様でした。

幸いにしていろいろなものを犠牲にしながら、その忙しい期間を走り切りることができ、どうにかこのノートを書いているわけで。忙しいときは一顧だにしなかった、「人間性」というものを回復しようとして今ここにつらつらとつぶやいています。

忙しいとき、自分は何を考えていたのだろうか。そう振り返ってみると、「自分がやらなきゃ」「自分の仕事なんだ」「これができないなら自分になんて価値がない」と考え、疲れているから少し休んだらいい、あるいは、少しは手伝ってほしい、こっちを向いてほしいという家族の声には、「どうしてわかってくれないんだ」「僕はこんなにも頑張っているのに」と反発をしていたように思います。

仕事っていったい何でしょうか。思いつくままに感じたことを書くと、「自分が、誰かのことを幸せにして、感謝をされること」なのかなぁと思います。

自分が得意なこと、或いは、得意でなくても、長くやっていることで結果的にスキルが上がって社会のためになるようなこととか。それが評価されて、お金という対価を頂けるのであるとか。

お金のために仕事をしているのかなぁ。でもお金のためだとしたら、これは絶対割に合ってないよなぁ、とか考えるのです。

なんで仕事をしているのかなぁ。こんなにつらくても仕事をしているのはどうしてかなぁ。そう考えた時、一つは、まぁ惰性というか、ずるずるなんとなく、雰囲気とか、なのでしょう。でももう一つは、やっぱり自分のお仕事がどこかの誰かを幸せにできているんじゃないかという一縷の望みだったりするのです。

でもですね、それはきっと、自分を犠牲にしたり、家族を犠牲にしたりするような類のものではないと思うのですよ。アンパンマンは自分の頭をちぎっておなかのすいた人に分け与える自己犠牲の人ですが、それはなんていうか、すごく痛々しいというか、もらう人も素直に受け取れないような、幸せになり切れないような気がするのです。

とりあえず走り切った、あるいは走り切れずに失速した僕はそのことに気付かせてもらったわけだったのです。

疲れ切っていた僕は、自分の好きだったことも忘れ、自分のやりたいこともなく、眠りは浅く、頭痛が3か月くらいずっと続いていたことにも気づかず、周りの人たちのことも見えず、ただ只管に責務をこなし続けるマシーンと化していたのでした。

家族のおかげで強制的に定時退社し、家族とふれあい、温泉に行き、本を読み、写真を撮り、音楽を聴くうちに、段々と固まっていた人間性がほころび、感受性が回復していくのを感じました。

日の出前の朝焼けに、舞い散る雪に自然の美しさを感じ、人間の紡いできた文化と歴史の偉大さに感動し、自分もこうありたい、気持ちを表現したいという思いがしみだしてくるのです。

仕事に忙殺されていた私は、知らず知らずのうちに視野が段々と狭まり、自分の指先くらいしか見えていなかったことを知りました。責務をただ只管こなすことにはただそれだけの達成感しかありませんが、同じ仕事でも、自分のやりたいことを、やりたいように表現することでは達成感と清々しさが違います。きっと生産性も全然違うでしょう。

いま忙しさに忙殺されている人にはきっと届きにくいのだとは思いますが。もしそんな人がこの呟きを読んでいた時のために少しだけ。あるいは僕が言ってほしかったことをつらつらと。

あなたの向かうべき道、成し遂げたいことはきっと間違っていません。

あなたのことが好きで、あなたのことを思いやってくれて、あなたを支え続けてくれる人が必ずあなたの近くにいます。

あなたが幸せにしたいと考えている人は、きっとあなたと一緒に幸せになりたいと思っています。

少し落ち着いたら、あなたの仕事が幸せにする方々だけでなく、そんなあなたをすぐそばで助けてくれる味方のことも、そして自分自身のことも、幸せにしてあげられるといいのかもしれません。

そんなこんな。

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