見出し画像

要塞生活100年

たくさんの人の出会いになればという思いを込めて、人はものをつくる。

つくる人は作品に自分を込めるし、受け手はつくった人を作品から感じ取る。

これにはもちろん、「自分を込めない」という選択肢も含まれる。作り手自身を作品に込めないという意図のもとに、つくられる品もある。

どちらにせよ、つくられた品を受けると、僕は作り手自身に関心がうつる。どうしてここをこうしたんだろう。やっぱりここはこうだよね。ここに自分を込めなかったのは英断だ!とか、つくった人に会って確かめたくなる。

ネットを使ってモノや情報のやりとりができるけれど、「会う」行為がすたれたわけではない。バーチャルリアリティの技術がもっと向上して普及したらその機会は今より減るかもしれないけれど、現状ではまだまだその域には達していない。画面を介してのビデオ通話がせいぜいだ。さわれないしにおいもないし、画像や音声が止まったり遅れたりする。

つくるためには、余地がいる。その「余地」にものをつくるのだから。はじめから余地があれば、すぐにでもつくり始めればいい。なにかべつのものがすでにあって、手放さないことには余地がない場合もある。大きかったり癒着していたりすると簡単には手放せなくて、まず壊したり溶かしたり、なくすことから始めなければならない。余地がないのにつくり始めようとすると、自由がきかない。すでにあるものにあわせたものづくりになるだろう。悪いとは言わない。そういうものづくりもたくさんある。(むしろ多数派か)

だいたいの人が、簡単には壊せないような複雑に入り組んだ巨大な要塞の中だ。生まれた時点でそんな様相だと思う。

自分はいまどこ。ここからどこへ行く。なにをどかして、なにを築こう。

それぞれが違うところに生まれて育って、自分のやり方を見つける。自分の周りから、自分の外側を知る。ひとりひとり違うけれど、同じ世界を共有しているという接点がある。

人に会うということは、そうした個々の生活を開示しあうということだ。同じ要塞の中だとしても、こんなにもそれぞれに知らないことがあるのか、と。感じてきたもの、触れてきたもの、いっさいがっさいが驚きと発見である。

どうやって築くのか。どうやって壊すのか、築くために。どんな場所に築くのか。場所はどうやって探してきた?

要塞には空も海も山もある。川もあれば池もある。高地もあれば地中もあって、寒い暑いもいろいろだ。

きみは、ぼくは、いまどこだ?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?