ゼイタクな芝居
お芝居って、ゼイタクだ。
ゼイタクっていうかリッチだ。
「豊か」というに近い。
舞台上のすべてが同時進行している。
どこに目をやっても、生きた時間がそこにある。
目のやりどころがいっぱいあるから、それだけ観る人によって個別の体験になるし、同じ人が観ても別の体験が無数にあることになる。
同じ公演内容でも、別の日に観たらまた、まったく違った体験になるだろう。
僕が取り組んでいる「音楽」に引き寄せても、当然同じことがいえる部分がある。
けれど、お客さんとして「芝居」を観る体験は、音楽の生演奏を鑑賞することとはまた違った、とても刺激的なことだ。
「このように進行する」、という「本(ほん)」がある。
音楽の舞台にも、それはあるだろう。紙や文字列として存在するかどうかはまた別である。
「本」どおりにいくこともあるし、ときには状況に応じて破られたり、臨機応変なアレンジが加わることもあるかもしれない。
本番は一回きりだからだ。
その時だけの状況は、その時にのみわかり得る。
舞台があって、お客さんがいる。
この境目が、そのときそのときで常にふわふわ揺れ動く。観測者や演者の意識ひとつでも変わるし、単純に物理的な距離とかも作用する。
時間の共有という点については、共通している。
同じ時間を共有して、それぞれにまったく異なる体験を得ているのだ。
このことに大きな意味を見出せる。
見出すかどうかも自由だし、それぞれのものなのだけど。
あの時間を、彼はどう過ごしたか。
自分にとっての体験はどんなだったか。
同一の時間の共有という基準をもとに、両者、たくさんの複数がその距離をはかることになる。
各々の体験が、こんなにも違うものなのか。
その逆もあるかもしれない。
舞台を降りたところにも、無数の舞台があるともいえる。
ひとりひとりのそれが複雑にからみあう様相は、実に豊かな世界に思える。
リッチと言い換えても同じ。
現実って、ゼイタクだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?