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はたらくためにはたらいているのではない。どうはたらくか、はたらきかたに集まる注目。その視線の着地点は、ほんとうはそこじゃない。

おおきな資本を持つ組織が、たくさんの個人を養うスタイルが通用しなくなった。それだけ、おおきな資本を持つ組織が少なくなったのだろうか。そういった組織の数が減っているというのもあるかもしれないし、そういった組織の資本の大きさが縮まっているというのもあるかもわからない。

お金というものに、汚いもきれいもないと思う。お金のかたわらにいる人間の姿勢に、きれいとか汚いといった印象をいだくことはあるかもしれない。前言を改めると、お金のかたわらに人間がいるというのは的確ではない。人間のかたわらにお金があるはずだ。自分の姿勢次第では、足元を見るような格好になるかもしれないし、見上げるような格好になるかもしれない。

生きていくのに必須なものとの交換を成立させるものが、ときにお金である。いついかなる状況においてもそうだというわけじゃない。お金を介さずに、生きていくのに必須なものにありつくこともできる。ただ、それはレアケースだ。この国における生活者のほとんどが、お金を介すことで、生きていくのに必須なものを得る営みに参加している。

生きていくには、何者かから、奪わなければならない。エネルギーを得るということは、そのぶんの命をどこかからいただくことだ。命のぜんぶをある個体からいただくのか、たくさんの個体から少しずつの命をいただくのか、といった方針に、個々のバランス感覚がある。そうした感覚の持ち主どうしが、ぶつかりあったり、こすれあったりしながら、小さな惑星にひしめいている。ひしめいているといったって、惑星に対して締める割合がどれくらいかといえば、たいしたひしめき具合ではないだろう。

たとえばひとつの島国の中での奪い合いや譲り合いがしんどくなってきたとき、島の外に目を向ける必要が出てくるかもしれない。より広範囲を視野に入れたうえで成り立つバランス感覚がものをいうかもしれない。大きな荷物を詰め込んだ包みは解かれ、中身が散り散りになっていく。そのなかのひとつひとつに、わたしがあり、あなたがある。

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