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習慣と依存 〜あまいものと、歯ブラシと〜

あまいものがすきだ。

あまいものをとらない日はない。

しょっぱいものより、あまいものがすきだ。

おせんべいより、クッキー派だ。

棋士が、対局後に体重をはかると何キロ減っている、というような話を読んだことがある。あるミュージシャンが本番を終えたら体重が何キロも減っていたという話も、人づてに聞いた。

自分がそうした人たちに匹敵するようなはたらきをするかどうかは別として、なにかと、「ああ、つかれたな。けど、まだこれから××をこなさなけりゃならない」といったようなとき、気軽にあまいものをとることがある。

正直にいえば、もうこれから寝るだけだというときの晩酌のともとしても、あまいものをとることがある。

正直ついでにいえば、起き抜けにコーヒーを淹れて、そのおともにあまいものをとることもある。

寝るのにもエネルギーが要ると思って、あまいものをとっているわけではない。

これから1日をはじめるのにエネルギーが要ると思って、あまいものをとっているわけでもない。

なんとなく、習慣的につまんでしまっている、というのが的確だろう。

「これから××をやるから! ひと仕事するんだから!」と、エネルギーを費やす対象を明確に据えてあまいものをとる機会のほうが、習慣的につまんでしまう機会よりもずっと少ないかもしれない。

あらゆる「あまいものをとる機会」のうち、「あまいものをとることが本当は適切とはいえない」ケースが、いったいどれだけあるだろう。あまいものに頼る機会は、多い。どこまでいけば依存なのかという判断は、むずかしい。

娯楽、食べ物、エロ、恋愛、仕事……依存のタネはいろいろあって、生活におけるあの場面にもこの場面にも、依存という視点で語ることのできそうな要素は案外多そうだ。たとえば歯みがきをすることだって、虫歯にならないために歯ブラシに依存しているという解釈ができないこともない。ぼくは毎日糸ようじを使うから、歯ブラシのみならず糸ようじ依存であるともいえる。

自分が頼っている対象も、自分のことを頼ってくれていたら、関係はイーブンなものだろう。歯ブラシや糸ようじが僕を頼ってくれているかといえば、大いに疑問である。歯ブラシや糸ようじをつくって売る組織にとっては、僕はだいじなお客さまかもしれない。

歯ブラシや糸ようじの身になってみると、案外、使って欲しくてうずうずするかもしれない。自分が歯ブラシや糸ようじだったら、1日に3回やそこらじゃ足りなくて、もっと使われたいと思うだろうか。そのために生まれた存在だから? あるいは、もうほっといてください、できることなら役目を終えて、廃棄してほしい、静かに休んでいたい……そう思うだろうか?

使い込まれて先の開いた歯ブラシを見ると、すこしかわいそうなことをしたような気もするし、よくぞここまではたらいてくれたという気にならないこともない。

生まれなければ、生きることもない。生まれたからには、生きるしかないのだ。僕も、あなたも、歯ブラシも。

読んでくださり、ありがとうございました。

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