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46億年のチリ

結局、その人が死んだ後のあらゆるおこないは、生きている人のためなんですよね。

たとえば延命措置をしないでほしいという本人の意思と、身近な家族の意思が一致しないこともあるかもしれません。

仮に「回復の見込みがない」ことが事実だとして、延命をはかることに莫大なお金をかけたりすることで、生きている人が、それも延命措置をされる人にとって1番身近で大切に思っているであろう人たちが、身を削り財産を削り、苦しい思いをして弱っていくようなことがあったら、それはだれも幸せにしない選択だったということにもなりかねません。

自分たちの納得のいくようにするというのは、なにもだれかの生死が絡まなくても、生きている間ずっとついてまわることでしょう。

配慮する対象となる人がこの世を去っているのだとしたら、そのぶんなにかを判断する基準は、よりシンプルになるでしょう。生きている人どうしの問題のほうが、よっぽどむずかしいように思えます。

「亡くなった人の気持ちを考える」ことは、生きている人がいま生きている人(自分を含む)のためにどうしたらよいかを考えることにほかなりません。

生きている人が、亡くなった人のために利他的な配慮をおこなっているのだと思い込んだり、そうさせるような力がはたらくのだとしたら、亡くなった人はその生命活動を終止したあとも、その存在自体はまるで生きているかのようです。人と人が関わり合って生きているからそういうことが起こるのでしょう。そのことを「社会的」という言葉でくくるとしたら、人が生命活動を終えてから「社会的」に亡くなるまで、だいぶ時差があることになります。

そうすると、歴史上の人物たちは未だに「社会的」に生きていることになります。

また、普段生活の中で意識していなくても、遺伝子を調べたりすれば、間違いなく私たちの中には、大昔からの遺伝子が受け継がれているわけです。

地球の地質を調べたりすることで、地球が生まれたときのことまで遡ってその痕跡が確認できたりするようなことがあるかもしれません。

人間もまた、ときに遺伝子のなかに、ときに歴史上の人物として語り継いだりなにかしらの媒体による記録のなかに、その痕跡を残しながら、まるで一個の「地球」みたいな存在として活動をつづけています。

一個人がどんなに忘れられても、存在した事実は決して変わりません。子孫を残さなかったとしても、誰にも語り継がれず、いかなる記録に残されなかったとしても同様です。誰にも語り継がれず、いかなる記録にも残されなかったことによって、ほかの何かを残すことに間接的な影響を与えたかもしれません。いや、強調していえば、影響を与えなかったわけがない。存在するということはつまり、そういうことなのですから。

「影響を与える存在」という言いかたは、厳密にはおかしいことがわかります。

存在すれば、すべて影響しあっているのですから。

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