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General or Special ?

自分は、認知したものからの影響を受けている。ちょっと言い過ぎてみれば、影響を受けていないといえてしまうようなもののことは、認知していないに等しい。すれ違う幾千の自動車や通行人たちと、ぶつからないようにうまいこと歩いていく様子が都心の街の日常になっているけれど、いったいその日に、その中のひとりはいったいどれだけの人やものと出会っただろう。

意中の相手に対して、こちらからの電波はすでに飛んでいる。彼や彼女やそれ以外のなにかがこちらに接近してきたりはたらきかけてきたりするようなことがあれば、交信状態になって、すぐさま影響しあうだろう。その一方で、受け取り手のいない「片想い電波」が、幾千幾万の人の頭の上を超えて宙を漂う。

メディアが何かを切り取って発信してみせるとき、切り取って発信してみせるような何かがあったことを伝えている。「切り取って発信してみせるようなものは何もありませんでした」というニュースは見たことがない。あるいは、どこそこの街の行列グルメがどうのとかいうコーナー自体が、暗に「何もありませんでした」という発信なのだとしたら、そこそこおもしろい洒落かもしれないし、あるいはちっともおもしろくもないし洒落てもいない、悪ふざけかもしれないとも思う。

「なんとも思わないこと」の存在が、何かと出会ったときの感動を際立たせる。それについてとくに考えはない、なにも思うことはない、という状態は、保養なのかもしれない。次にやってくる、未知なる動くべきときのために備える、充電みたいなものかもしれない。いつでもどこでもコンセントの挿入口を探しては、ケーブルをかばんから取り出して、ひっきりなしに充電しようとする人がいるくらいだ。つくづく、充電が足りていないのだなぁと思う。地球上のすべての問題は、エネルギーの問題に集約されると頭の良さそうな誰かが言っていた。

あらゆる未知のことを楽しんでいけるかどうかで、これからの環境に適応できるかふるいにかけられていくのだとしたら、ひとりひとりの人間がジェネラルにならざるを得ない。そんな潮流の中においてもなおスペシャルを志向する人は、いかに自分と補完し合う存在と関係を築けるかが重要になってくるのではないか。

などと、ジェネラルにもスペシャルにもなりきれない僕が言う。耳を傾けてくださり、ありがとうございます。

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