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釣り糸が結ぶもの

「釣れたんじゃない、釣ったんだ」
これは、ある釣り人の言葉だそうです。どなたの言葉だか存じ上げませんが、人づてに聞いた言葉です。

魚(およびその他の対象となりうる生物)のいるフィールドがあって、釣りのための道具があって、釣りをしようとする人がいて、はじめて釣行が成立します。

魚がそのフィールドにいても、魚と釣り人の投ずる仕掛けが、コンタクトできる範囲にいなければ両者が出合うことはありません。仮にコンタクトできる範囲に両者が存在したとしても、釣り方が適切でなければ、やはり釣り人と魚が対面することはないでしょう。

どんなやり方で、どんな魚を狙うのかという意志を持って、それに沿った行動が結実することを「釣った」と呼ぶのに対して、「釣れた」というのは、対象を見定めずにおこなったことに対して偶然得られた結果、という印象を受けます。

「釣れた」にせよ「釣った」にせよ、釣果があったならそれでいいじゃない、と言われれば、まぁ、そのときは釣れた事実が単純にうれしくて、あまり問題にする気も起こらないかもしれません。

自分のおこなったことによって、どうしてその結果が得られたのかという分析を積み重ねていくと、「釣行」を能動的にデザインし、結果を出し続けていけるようになるのかもしれません。対象を見定めずにへたに「釣れた」現象が起きてくれてしまうと、そのときのうれしさで、この「振り返り」を怠りがちになってしまうかもしれないと思うと、釣れなくて釣れなくて悔しい思いをしたほうが、そのときすぐに「どうして釣れなかったのか」を振り返るための強い動機が得られるのかもしれません。

あるところで、ある釣り方をして、一定の成果があがると知ると、それで満足ならば、そのやり方をその釣り人は繰り返すかもしれません。

世界にはもっといろんなフィールドがあって、もっともっといろんな魚と出会いたくて、そのためについて回るあらゆる大変なこと、必要となる一切の努力・工夫の類を、自分は決していとわない! そういう姿勢・信念である……という思いが、冒頭の「釣れたんじゃない、釣ったんだ」というせりふのバックグラウンドになっているのではないかと想像します。どんな方なのか存じ上げませんが、きっと素敵な人なのでしょう。そういう人と自分も巡り会いたいと思ったら、やはり自分もそうなる必要があるでしょうね。釣り糸が結んだご縁、といったところでしょうか。

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