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水底のそいつ

罪を犯した人が、その動機を「刑務所に入りたかったから」だと述べたということがあったと聞いたことがあります。3度のごはん、風呂、雨風しのげる屋根に壁にトイレ、これだけあったら命を保つのに差し障りはないでしょうから、前途の動機から罪を犯した人のそれまでの生活においては、その命を保つのに差し障りがあったのだと、そういう可能性が考えられます。実際にそこまでの困窮状態にあったかどうかは別でしょうけれど、本人にそう言わしめる実感を与える何かしらの状態にあったというのには違いないことでしょう。

罪を犯して刑務所に入ったら、仕事も食事も選べないでしょう。日々のタイムスケジュールも、決められたものにあわせることになると思います。いっぽう、刑務所の外にいる私がそういった選択の自由を日々どれだけ行使しているでしょうか。じぶんで選んだ仕事に就いて毎日生きていることを思うと、その答えは「常に行使している」といえるかもしれません。ですが、私本人にはいつの瞬間もそうした自由の実感があるかといえばそうでもなく、それを感じるとしても細切れに感じています。それは日常の海に潜っていて、ときどき息継ぎをしに水面に現れて、ぱっくりと口を開けて息を吸い込んではまた水底に潜るのです。

それにしたって、「そいつ」は、います。いるのです。私が刑務所の中にいたとしたら、「そいつ」が水面に現れることはないでしょう。現れることがないどころか、「私の日常の海」のどこを探しても存在しない状態、といえるかもしれません。

「そいつ」がずっと水面にいて、口を上に向けてぷかぷかと浮かんでいる。私はたびたびそんな状態–––いつでも「そいつ」が自由に息をしている状態–––を夢に見ます。自由に、といいますか、無意識に呼吸をしている状態、といったところでしょうか。実際のいまの私の海の「そいつ」は潜っていて、息をすることをある瞬間は我慢し、水面に現れた瞬間に、「そいつ」は呼吸を我慢していた期間を濃縮したのに等しいくらいの激しい呼吸を、ある瞬間にまとめてしているような状態です。

実際に私が刑務所に入ったら、またその実感は違ったものになるのかもしれませんけれど。

お読みいただき、ありがとうございました。


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