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憂き目を見たら次に備えよ

演奏において、練習の積み重ね以上に大切なものはない。いや、演奏者自身が運営役を兼ねていたとしたら、観客を集めることの方が重要とする見方もあるかもしれないが、ここで言いたいのはそういうことじゃない。

どれくらい緊張するかや、実際の現場のコンディションといった、排除しきれない不確定要素がつきまとう。そうした不確定要素が、それまでの練習内容に揺さぶりをかける。テキトーに積み重ねきたそれは、脆く崩れ去ることになる。緻密に重ね固めてきた鍛錬のみが、そうした揺さぶりに耐えて残る。そのための「備え」であり、「練習」である。

話が変わるが、私は、教育関連の公務に服している。この仕事をしていると、あらゆる側面からあらゆる心配ごと、悩み、不安、不満を持って市民があらわれる。そうしたひとりひとりの独自の視点から、日々気付かされることばかりである。ああなるほど、確かにあなたの立場からあなたの目線でこのことがらをとらえた場合、あなたの主張には納得すべき正当性が含まれている……と思わされることがある。おのれのしてきた仕事のやり方、そのルーティンのおかしなところに気付かされることがある。

公務という性質上、仕事のやり方の多くは、いち職員のさじ加減で決められたものではない。だいたい、誰が誰に対応した場合でも、まっとうな順序で、理にかなった対応ができるように仕事のやり方が練られてきている。ただ、決してそれも完全とはいえない。今のところの着地点に落ち着いている、というだけである。

たまに、重い腰を上げて飛び、着地をやり直すべきときもある。組織でリスクを分散して負っていると、そうしたときの動きが遅くなりがちだ。そのことがまた、市民の不満のタネになる。皮肉だ。

市民側が一方的に「してもらう」意識でいると、そうした不満を持たざるを得ないだろう。「お前らのここがおかしい。それを直すのがお前らの仕事だけど、俺も一役買うし協力するから、一緒にがんばろうぜ」くらいのスタンスでいてもらえると、公務をする側としてはありがたい。

ありがたいことはしょっちゅうあるわけではないからこそありがたいわけで、まあそうそうないだろうなとは思っている。中には、協力的な市民もいることだろう。そうした市民と一緒になって、何か少しそれまでの理解を改めることができたり、まっとうな手続きによって仕事のやり方を改善できたりしたらいいなと思う。「税」という形で出資していることを、サービスの購入と認識するか、共同出資と認識するかによっても、そのスタンスは大きく左右されるだろう。どちらも間違っているとはいえないし、常に正しいともいえない。

そんな仕事を昼間にやりつつ、夜や休日に、私は演奏や歌唱の練習と記録を繰り返している。先に控えた演奏や歌唱の本番が、素晴らしい瞬間が延々と連なる活動写真のようなものになればいい。あるいは、制作に励んだ「記録物」が、少しでも望んだとおりの演奏内容になるようにと、練習という名の「備え」に傾倒している。

こうした活動を、人生を賭してやっていきたいということを、僕はそこそこ早い段階で決めていた。なんのためにその活動をするかというよりは、その活動によって何ができ、何が叶うのか、それを見たいと思ってやっている。そこは、僕のいちエゴであり、個人的な望みであり、同時に、他者に否定されず、尊重されるべき思想・信条のようなものなのだと理解している。

昨日僕は、仕事をしていて、「すぐ終わる」と値踏みしていたある仕事の期限が近づいたところでそれを見直してみたら、新しく問題点を発見してしまった。結局、それまでの算段を大きく上回る時間をその仕事に費やしてしまった。「備え」が足りなかったのである。

新しく発見してしまった問題点に気付かなかったふりをして、算段のとおりの時間内に納めてしまうことも可能だっただろう。超過した時間を、私はおのれの肥やしにしたのである。きっと、無駄にはならないだろうから。

「備え」が足りなかったために直面した事態は、のちにおのれのためになる。備えすぎて、「備え」が仕事の本体みたくなったり、人生そのものにすり替わったりすることについては、やはり見過ごすべきでない。

「備え足りずに憂き目を見たら、次に備えよ」くらいでちょうど良いのかもしれない。

お読みいただき、ありがとうございます。

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