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うつわと水(VS.同人誌後夜)

同人誌というのはいろいろある。

女の子をかわいく、きれいに、ときに艶かしく描いたような作品はたしかに多い。群れをなすかのように存在している。

けれど、やっぱりいろいろある。

じぶんがつくりたいものを、つくりたいようにつくったもの。

それが同人誌である。

だれのためにでもなく、自分のため。

近くに喜んでくれるような人がいる場合は、その人も含めて「自分」かもしれない。これが徐々に地続きに、ないし、手つなぎ式に広がったコミュニティこそが、「同人誌」の世界かもしれない。

もちろん商業出版の世界もそこには癒着していて、これも含めてやはり地続きの世界がひろがっている。「癒着」に揶揄を込めたつもりは一切ない。ほんとうに、ただ切っても切れないような存在として影響しあっていることを指している。

がんばって描いてつくっていたら、誰かの目にとまるかもしれない。そう思って取り組む人は少なくないだろう。

目を止めてくれる人には、同じようにして「つくる作業」に身を投じる人もいれば、つくり出されたものを純粋に楽しむ人もいれば、なかには先ほどの商業出版の担い手もいたりする。

そしてなにより、つくり手自身がいちばん、つくる作業を通して、できあがった成果物を通して、自分と対峙することになる。自分から生まれたそれが、目につき鼻につき耳にさわり舌にまとわりつき、からだのあちこちを圧迫したり撫でたりつついたりするかもしれない。非常に近い存在だけど、一心同体ではない。もう、自分のからだからは、はなれおちたのだから。ものをつくることは、それまでの自分を、自分からはなして見ることにほかならない。

たまたまつくりあげる成果物になんらかの親和性をもったものどうしが、あつまる。

そのコミュニティ、群落地のなかのひとつに、同人誌という名前を背負った村ができた。

これは、ものすごく人間的で普遍的なことなんじゃないかと思う。

僕だって音楽を通して、自分を外側に映し出して必死で見ようとしてきたからだ。

音は、本とちがって、眺めるのがむずかしい。自分をはなれたそばから、一瞬からものの数秒で空気の中をはしり抜け、どこかへ消え去ってしまう。

録音するという手ももちろんある。

これはこれで、そういう手法による「別物」になる。それもまた、「ものづくり」には変わりないのだけれど。

自分が人間であることを肯定したいし、地球にくらすひとつの動物でしかないことも肯定したい。

自分をひろげて、からっぽになる。

からっぽの僕に流れ込む、水。

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