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誕生日のグループチャット

実際に何もしてないはずがないのに、ぼくは何もしていないだなんて思って、じぶんを過小評価する癖がこびりついている……と、長く続く雨季が、そんなことを思わせがちなのかもしれない。

ぼくの祖父母の命日がくると、ぼくの両親は仏壇に火のついたお線香を立てる。あんたもお線香やってねなんていわれて、ああ、うん、なんて返事をして、ぼくもお線香をやるのだけれど、あとまわしにしてそのまま忘れてしまうことがこれまでにあったのもまた本当だ。

ぼくはじぶんの子どもの誕生日を覚えている。まだ小さいから月ごとにその日付けが来るたび、今日は何歳と何ヶ月だとかひんぱんに思い出す。子どもの歳をだれかに訊かれて、答えるために思い出す機会が多いから余計に子どもの誕生日を意識するのかもしれない。住んでいるところの自治体から補助を受けるためのもろもろの書類に、子どもの生年月日の記入が要ることが多いせいもあるかもしれない。

ぼく自身の誕生日は、ぼくの妻やぼくの両親をはじめとする親族がよく覚えていて、その日になると親族のグループチャットが飛び交う。ぼくは33歳なので、ぼくの幼い子どもの誕生日が来たときのような微笑ましさはないけれど、また違った微笑ましさがあるのかもしれない。

ぼくは祖父母の誕生日がいつだったかを知らない。両親が拝むので、祖父母たちの命日がいつ頃の時期だったかということは意識する機会がある。祖父母たちが亡くなる前ならば、祖父母たちの誕生日を意識する機会があったかと問われれば、それはなかったねというのがぼくの正直なところだ。33歳を達成済みの僕の誕生日にも、66歳を達成済みの僕の両親の誕生日にも、親族のグループチャットは少し盛り上がるけれど、ぼくやぼくの両親がいったい何歳になるまで似たようなことが起こり続けるのかわからない。端末上で簡単に発信できるグループチャットがあるから、こうして親族の誕生日を意識する機会が生まれているだけかもしれない。

ぼくの両親は、ぼくの祖父母の命日の到来をおなじグループチャットによって知らせてくることがある。静かにぼくはその知らせを受け取る。

ぼくがじぶんの子どもたちや、下の世代の親族たちとグループチャットを持って、ぼくの両親の命日をつぶやく未来が遅くともあと30年くらい以内に来るかもしれない。30年間を時間や日数に換算するとまぁまぁの量塊であるような気がしないでもないけれど、誕生日その日を迎えられる回数だと思うとあまり多いとも思えない。春だとか夏だとか秋だとか冬だとを迎えられる回数だと思っても、似たような感慨がある。

お読みいただき、ありがとうございました。



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