結論のない話

少し長い話になる。

気になる人だけ、読んでもらえたらいい。

私は誰よりも家内を愛することができ、また誰よりも家内のことを理解している。それでも私たちは一年後には離婚しているかもしれないし、少なくとも別居しているかもしれないと思っていて、その理由を友人に説明する場面に出くわしたのだが、それがとても難しかった。

私にとって生きる意味は何かと問われれば、全ては家内のためであった。

私が一生懸命仕事をするのは家内のためであって、自分の子供や両親のためではない。たくさん稼ぐことができたら、家内にもっと楽をさせてやれるし、もっと充実した日常を過ごさせてやることができる。だから私は一生懸命働くのだ。

そして、離婚という言葉が半ば現実味を帯びてきた今現在でさえも、私にとっての生きる意味は今も、変わらず家内の存在のみである。あの人がもしこの世に存在しないのなら、私は最早生きる意味を失う。なんのために働けばいいのだ。自分のためか? それとも子供たちのためか?

無理だ。家内の存在なくして、私はがんばって生きていくことができそうな気がしない。将来的にはどうにか生きていくことができるようになるのだろうか。わからないが、少なくとも今はそういう未来は見えない。

それでも、私たちは恐らく、離婚することになるだろう。

喧嘩ばかりしているうちはよかった。今はもう、喧嘩すらしない。

互いに一言も言葉を交わさない日のほうが多いし、家内のほうはもう既に、私に対してはなんの感情もないのかもしれない。たまに口を開くとすれば金の催促か、ゴミ出しの催促か、電球の交換である。

最近では、晩御飯の用意もしないときが増えてきた。何も用意していないことを伝えてくれれば何か買って帰るのだが、それすら連絡するのが億劫なのか。こちらから送信したメールには基本的に返してこないし、わからない。

私はもうだいぶ長いこと、一日一食の生活をしている。これは家内のせいではなくて、自分がそういうライフサイクルで生活することに慣れてしまったからだ。思えば、もっと家内を頼ってやればよかったのだろうか。昔は嬉々として弁当を作ったものだが、私はそれがなくても生活できる体質を手にしてしまって、でもそれは少しでも家事の負担を軽減してあげたいがためであったのに、もしや間違っていたのかもしれない。

結局のところ、多くの離婚する夫婦がそうであるように、やはり私たち夫婦にもいろいろな問題があって、解決しようと試みてはみるものの、どうにもうまくいかないのである。

本当のことを言えば、もう離婚する方向で双方意志は固まっていて、あとは経済的な折り合いをつけるだけだ。向こうが内心どう考えているかは別として、私自身は離婚すること自体は家内のためにもよかろうと思っている。

でもお金は送ってあげないと、たぶん生活していけない。歳も歳だし、もう昔のようにコンパニオンとして男をたぶらかして生活することは難しいだろう。日中パートに出たくらいでは、来年には高校を卒業する息子を抱えながら生きていくのはつらいと思う。

そもそも少し前に、家内の不倫疑惑があって、私は当時大変ショックを受けたものの、今にして思えばそれは、私が家内を放置しすぎたことが原因だったように思うし、なにより疑惑は疑惑であって、まあ、実際には何もなかったんじゃないかなあとは内心思っていたりもする。※このときは泊りがけで某ホテルに行ったという事実があり、普通はなにかあったと考えるべきなのでしょうけれど――

それは家内の節操をマジメに信じているという意味ではなくて、家内のことを愛せる人間が自分以外にいるとは思えないからである。家内の外見の美しさや、あるいはその不思議と人を魅了する空気、そういうものに釣られる男は比較的多いのかもしれない。

だが愛せるかどうかは、話が別である。

そもそも、私でさえ相当苦労した、あのどこまでも深く閉ざされた心の扉を開けられる人間がいるとは思えない。家内は結局、私との結婚生活にも失敗したとなれば、いよいよ男運がないわけであるけれども、それはひとえに、家内が相手の男を変えてしまう力があるからに他ならない。

家内と一緒にいれば、機嫌を損ねさせないために精一杯尽くさねばならないし、機嫌を損ねているときはそれはそれで何で怒ってるのか理解できないし、理由を尋ねても答えないし、答えたとしてもそれを聞いたところでやっぱりそこで怒る理由が男にはわからない。つまり家内の機嫌の良し悪しは、まるで自然災害のように、それこそ急な雷雨のように予測不可能であって、よしんば予測できたとしてそれを避ける術などないのである。

精神的に脆いやつは、どんどん自分を失い、自信を失い、なにもできなくなりいずれ家内を拒絶するようになる。

精神的に幼いやつは、どんどんプライドを失っていく自分を受け入れることができなくなり、いずれ暴力に訴えるしかなくなる。

家内は今までそうやって幾度となく失敗してきたはずなのに、それらの経験から何も学んでいなくて、こと男に対してはそういうスタンスでしか生きていけないのだと思う。

私は暴力に訴えることも、自分を失うこともしなかった。家内の傍若無人を許してきたし、自分が納得のいかないことには意見した。意見したところで向こうは考えを変えることは一切ないのだけれど、一応、意見しないのは夫婦としてよくないなと思って、ちゃんと喧嘩するようにしていた。喧嘩したところで、最終的にはこちらが折れてあげなければならないし、家内が私にごめんなさいと謝罪したことは、この長い夫婦生活のなかで一度もない。

面倒な人だ。

本当に。

辟易するほど、面倒くさい。

どうして、もっと器用に生きることができないのだろう。

見境なく敵を作って、素直に甘えたい気持ちや嬉しい気持ちを隠して、感情的になることでしか愛情を表現できない人。

私はこんなに怒ってる! それほどあなたのことが大事なのよ!

とか、そういう気の利いたことは言えない。ただ、怒ってみせることしか、できないのだ。不機嫌そうに、わざと聞こえるように大きな溜め息をついてみたり、乱暴に食器を投げて割ってみたり、唐突に目の前でハサミで髪の毛をバサバサ切り始めたり。そういうことでしか、愛情を表現できないのだ。

それを理解できるまでに十年を要した。

理不尽にキレているのは、愛ゆえに。

そのことを理解できるようになったのはつい最近のことで、そのキッカケになったのは皮肉にも、私が離婚の話を切り出したときだった。

当時の私は、この夫婦関係を続けていくことがお互いにとってよくないのではないかと考えていた。私の存在が、家内の次の恋愛や、その後の人生の足を引っ張ってはいやしないかと考えたのである。不倫疑惑が出たとき、私はむしろ、自分自身がこの人の幸せを阻害する存在になっていたのかと考えた。「裏切られたショック」みたいなものがなかったとは言わないが、それよりもむしろ、自分が家内のことを支える存在から、もしや家内にとって邪魔なものになってしまったのかもしれないことが、苦しかった。

別れを切り出すには、いろいろなことを覚悟する必要があった。

まず、家内を愛していないなどという途方もない嘘をつかねばならない。これが一番難しかった。

また、別れた後も恐らく金銭的なサポートは必要になるだろうし、そもそも母子が別居するとしても転居するための引っ越し費用やもろもろの経費を受け持ってやる必要があると思っていた。私は経済的に余裕のある生活をしているわけではないから、最悪借金をしてでもまとまった金を渡してやる必要がある。

いや、それ以前に。家内は単純な経済的問題から、離婚をすることを拒む可能性もあった。私が稼いでくる給料は、これまで全て漏れなく家内の財布に入り、私には月に一万も渡せば私はうまいことどうにかやりくりしてやってきた。なんという低コストな亭主だろう。この状況をはいそうですかと手放すだろうかという懸念もあった。

単純に、勇気も必要だった。

愛してないなんて、嘘でもはたして言えるかどうか自信がなかった。

でも、離婚の話を進めていく中で、驚くことに家内は初めて、それこそ十何年間の夫婦生活において初めて、私のことを愛していると言った。

私はそれを聞いたときに確信した。

この人を愛することができるのは自分だけ。この人に愛されることができるのもまた、自分だけであることを。

しかしそれでも、じゃあゼロから再出発のつもりで、再度夫婦生活を続けていこうという話にはできなかった。その理由は先にも書いた通り、私の存在が家内の人生にとって、足枷になってしまうのではという思いゆえでもあったし、事実十年以上一緒にいての現状が大変に悲惨な日常であったし、私はもう、以前のようにすべてを受け入れ許すだけの振る舞いを、してあげられるとは思えなかったからだ。

まるで言い訳のようではあるけれども、私自身は、家内が誰かのために自分の振る舞いを変えるという能力を身に着けてくれなければ、人として、基本的な人間の振る舞いとして、それはよくないと思っていた。

大切な人であるからこそ、せめて、私のためにだけは、考え方をあらためることができるようになってほしいと、思っていた。ただしこれは、十年以上一緒にいてわかったが、家内には無理なことのようである。

諦めずにこれからも、家内と向き合うことはできるかもしれない。というより、私さえその気になれば、続けていくことはできるだろう。だがそれは、感情を持つ一人の人間である以上、私にとっても簡単なことではなくなってきてしまった。

次第に私は、経済的な援助をしてやることが私にとっての家内にしてやれる最善なのではと思うようになった。

そばにいれば、家事の負担が私のいる分だけ増えてしまう。

そばにいれば、良い人と巡り合えても気持ちが引けてしまうかもしれない。

そばにいれば、愛を語らうことよりも喧嘩をすることのほうが多くなってしまう。

そばにいれば、私は家内を傷つけてしまうかもしれない。

そばにいれば、愛を伝えてやることはできる。でもそれを嬉しいと思っているのかどうかは、察するしかない。なにせ十年間一緒にいて、それを家内が言葉にしたのは一度だけなのだから。

それならばいっそ、便利な財布代わりになってしまったほうが、家内のためにはいいのではないかと思うようになったのだった。

だがそれでも、考えれば考えるほど、私はもう一度、昔のように常に相手を受け入れる寛容な心を持ち、理不尽な振る舞いも言動も許し、たとえ相手が変わってくれることに一切の期待ができないとしても諦めずに意見するべきことは意見し、そうやって生きていくべきなのではないかと思ってしまうことがある。

結局のところ、どうすることが一番最善なのか、わからないままだ。

押しても引いても動かないそれを、信じて向き合い続けるのは難しい。要は、そこにどれだけの情を注げるか、それがすべてである。

私は、弱いのだろうか。

向き合うことを諦め、逃げているだけなのだろうか。

十年という時間は自分にとって途方もなく長かったが、しかしそれでも、まだまだ努力が足りないのだろうか。数十年というさらに長い時間を経て、熟年にいたり離婚する例も増えていると聞くが、最終的にそうなるのならば今家内を自由にしてやることが最善なのではないかとも思えてしまう。

堂々巡りだ。

実は、相手に依存してしまっているのは私のほうなのかもしれない。

このまま離婚の話を進めるべきなのか、それとももう一度向き合うべきなのか。

どうも最近、そういうことばかり考えてしまうのだが、一向に何が一番いいのかは、わからないままである。


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