掌の雪

絵里は、ベッドの上で様々な機械に繋がれ死んだように眠っている母親を見て、どうして、と私に尋ねた。

お母さんはね、お熱があるんだ。風邪をひいちゃったんだよ。

雲が低く垂れ込める寒い日だった。病院へ向かう車中で、絵里は上機嫌だった。普段は仕事ばかりで、絵里と私が一緒に出かけられることなんてそうそうない。絵里にとっては楽しい遠足気分だったのだろう。窓の外を流れていく雑多な景色に、いちいち反応しては大騒ぎしていた。

大きなオモチャ屋さんの看板。
今日は何も買わないよ。

大好きなケーキ屋さんのショーケース。
この間食べたばかりでしょう。

踏み切りを通過していく電車の音。
うるさい音だね。

絵里は、何かと私に話しかけた。私はそれになんとなく答えた。今にして思えば、まる一日母親と離れ離れになっていて、きっと人恋しい気分だったに違いない。私は私で、そのときは絵里のそんな気持ちに気づいてやれるほどの余裕が無かった。私の頭の中は、なにか暗い靄に包まれていた。

年末で、家にたまたま遊びに来ていた義理の母から電話がかかってきたのは一昨日の夜。年内最後の仕事を片付けていた私は、携帯電話の向こうで義母が説明している内容を、最初は理解できなかった。義母がやたらと慌てていたからというわけではない。にわかには、信じられない内容だったからだ。

塔子が倒れた、今救急車で病院に向かっている。そんな内容だった。

医者の診断はクモ膜下出血。脳内の血管が突然破裂したことによる、急性の意識障害で倒れたのだと説明された。最悪の場合、後遺症が残るかもしれないし、いずれにしても今は予断を許さない状況であるとも言われた。義母は受話器越しに、絵里が心配するからできることなら帰ってきてほしいと言った。そして今日、塔子はまだ意識が一度も戻らないままだ。

病院に着いて私は、絵里と一緒に遠巻きに塔子を眺めていた。
そうすることしかできなかったから。

医者に挨拶をし、少しだけ今後のことについて話をした。塔子にずっと付き添っていたかったけれど、絵里がいる。私は、絵里の手を引き薄暗い診察室をあとにした。


おかあさん、いつなおるの?

出口へ向かう途中、絵里が言う。
そうだなぁ、と曖昧に返した。絵里が足を止める。

おかあさん、あしたかえってくる?

私はハッとした。絵里に対して不安を与えてどうする。私の不安を、絵里が感じ取っているのだ。私は、努めて冷静に、笑顔を作ってから答えた。

お医者さんが診てくれる。だから心配要らないよ。
きっと明日にはお熱も下がって、帰ってくるよ。

そっか! やったぁ~。

病院を出ると、外には一面の白い絨毯が敷かれていた。真っ白な雪が、ふわふわと漂いながら降っていた。どうやら病院にいる間に降り出したらしい。
絵里は、うわぁと歓声をあげ、嬉しそうに駆け出していく。転びやしないかと思ったときには、絵里はすでに転んでいた。慌てて駆け寄り、服についた雪を払ってやる。冷たい雪の感触が指先に残った。心の中にある冷たく悲しい気持ちが、ぶり返してきそうで恐かった。掌の上で徐々に溶けていく雪の粒を眺めて、私は少しの間ぼうっとしてしまっていた。

おとうさーん!

絵里に威勢よく呼びかけられ、我に返る。

おとうさん、これ、もっていったら、おかあさんのおねつさがるかな?

絵里は、両手に収まり切らないほどの雪を抱えて、私を見ていた。

ゆきがたくさんあったら、きっとおねつさがるよね?

私は、やはり、そうだねとしか、言えなかった。
何故か、熱いものが込み上げてくる。

絵里が、また雪を集め始める。
私も一緒になって、ふたりで雪を集めた。


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