須藤真澄「グッデイ」/史上最強の「ファンタジー」

誰しも生きていくにはファンタジーが必要だ。現実だけでは生きていけない。
ほんのひとかけらのファンタジーを支えに、私たちは今日も生きている。

「グッデイ」は長年、良質のファンタジーのエッセイマンガを描き続けてきた須藤真澄の最新刊だ。
帯に粗筋が書いてある。過不足なく見事にまとまっているので引用しよう。

『玉迎え』とは、体の寿命で亡くなる人の体型が、
その前日から球体に見える状態をいいます。
玉迎えは、15歳以上の人が任意で服用できる『玉薬』を
飲むことで見えるようになります。
亡くなる人と、玉迎えが見える人の組み合わせは、
世界でたった一組のみ。
だけど、もし0.0000……X%の確率を越えて、
出会うことができたなら……。

本書では様々な「玉迎え」が書かれる。家族に「玉迎え」の姿が目撃される者、玉迎えを迎えた見ず知らずの老人のために東奔西走する者、玉迎えとなったのになんかクールな目撃者の様子に拍子抜けする者、ひとり蠱毒に病院のベッドで玉迎えとなる者、エトセトラエトセトラ。
本書のファンタジー要素、道具立てとしてはこの「玉迎え」という現象のみだ。

冒頭に、誰しも生きていくにはファンタジーが必要だと書いた。そのファンタジーとは「玉迎え」のことではない。

「玉迎え」は道具立てに過ぎない。
その結果もたらされたもの。それこそが生きる糧となる「ファンタジー」に値する。

では、その「もたらされたもの」とは一体何か。
作中では様々な形をとっている。家族の精一杯のもてなしに満足げに呟く姿であり、自分が亡くなることを知り身辺整理を済ませていつも通りに就寝する姿であり、世の中に冷めてしまった目撃者に対して鼓舞するかのように思いのたけをぶちまける死にゆく者の姿であったり、様々だ。
その様々な「死」の在り方に共通する点がただ一つ。

それは、誰一人として、孤独のうちに亡くなってはいないという事だ。

そう、誰も孤独ではない。須藤真澄は、病院のベッドで一人横たわっている老人にさえ、孤独であることを許さない。
誰一人として、孤独のうちに亡くなることなどないのだ、あってはならないのだ。一見孤独に見えたとしても、必ず誰かがあなたとつながっているのだという、実に非合理的で、とてつもなく力強い信念。
それこそが本書の中核をなす「ファンタジー」であると、そのように思う。

誰しも生きていくにはファンタジーが必要だ。現実だけでは生きていけない。
ほんのひとかけらの、非合理的な信念を支えに、私たちは今日も生きている。
「グッデイ」は、これまで読んだ中でも最上級の作品だった。

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