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傷つける笑いのブレークスルー

皆さんは今年のM-1グランプリ、見ましたか?
今年の決勝はウエストランド、ロングコートダディ、さや香がしのぎを削り、見事ウエストランドが18代チャンピオンに輝きました。

優勝が「悪口漫才」であることはメディアでも取り上げられているし、僕が見る限りTwitterでも話題になっています。僕はこれを見て、「笑いとは何なのか」をすごく考えさせられたんですよね。

このノートでは、ウエストランドの優勝に見る「傷つける笑いのあり方」について完全に独断と偏見で考えていきたいと思います。

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タイムラインの反応を見るとウエストランドに否定的な評価も多いのですが、最終決戦の2個目のネタでの勝負なら、ウエストランドが1位だろうなと僕は思いました。ロングコートダディ、さや香は今一歩最終決戦の空気を味方につけきれなかったですね。

今回のM-1の中で僕が全ネタを通して一番面白いと思ったのは、さや香の1st roundの「免許返納ネタ」です。次点で、ウエストランドの1個目のネタと並び真空ジェシカのシルバー人材センターです。(この後の内容にもかかわるので見てない人は見てね)

1st roundの講評で立川志らくが「今の時代は人を傷つけてはいけないが、(ウエストランドは)人を傷つけまくる」「毒があるのが面白い」と語った影響もあり、ウエストランド=悪口で人を傷つけまくる笑い、というイメージが権威付けされたのも最終決戦に影響を残したと思っています。

さて、人を傷つけるのはウエストランドだけだったのでしょうか?

先ほど紹介したさや香の「免許返納ネタ」は、「81のオトンが先に免許返納しろ」「普通に生きていたら佐賀には行かない」というツッコミが出てきて、思いっきり高齢者dis、田舎disをしています(dis:非難する、軽蔑する、disrespectの短縮形)。

「34が返納する前に81が返納するのが当然だろう」という、言うなれば観客の無意識の偏見がこのツッコミへの同調と笑いを生んでいるわけです。

ただ81歳でも元気で問題なく車に乗れている人、若干の不安はあるが日常生活に車が不可欠な地域に住んでいる人、およびその家族の中には、このツッコミにズキンと胸を刺された思いがした人もいるでしょう。佐賀で暮らしている人の中にはこのツッコミのセリフに傷ついた人も探せばいるでしょう。

真空ジェシカの「シルバー人材センターネタ」も同様です。「高齢でAIに仕事を奪われた人」の登場に傷ついた人もいるかもしれないし、「シルバー人材センター内のどのAEDも使った形跡がある」は不謹慎だと感じた人もいるでしょう。探せば、中には。

なおこういう高齢者disや田舎disは、紳助竜介やツービート、B&Bの時代から漫才の鉄板ネタとして出てきます。

(ここに紳助竜介の漫才のYouTubeリンクを貼っていましたが、公式の動画ではないので削除することにしました。「『実は夫婦でね』と言ってもみんなは笑ってくれるけど田舎のオバハンたちはお笑いだと分かってくれない」という一幕がありました)

傷つく人がいるネタはやってはいけないのでしょうか。無意識の偏見に基づく笑いは邪悪で、いじめのそれと同じだからやってはいけないのでしょうか。

難しいテーマですが、僕個人としては、必ずしもそうではないと思っています。笑いには、何かを傷つけ得る要素が本質的に内包されているのだと思います。

笑いの形の1つに、怒り、悲しみ、苦しみなどの昇華としての笑いがあります。江戸の庶民による風刺の笑いはこれですね。やるせない世の中に対する鋭い毒を刺しながら、明日を乗り越えていこうとする強さを感じます。当然これは「お上」を傷つける意図がありますが、この時代は身分が歴然と決まっていたので、それが許されていたわけですね。

他にはあるあるネタも、何かの属性に何となく持っているイメージに何となく持っている淡い負の感情(すごくざっくり言い換えると偏見)を刺激されるから笑えるのです。

僕はロバート秋山のクリエーターズファイルとかめちゃくちゃ好きなんですけど、細かい観察眼で誇張されたイメージによって作られた謎のウザさに笑ってしまうわけです。ただあまりにも完成度が高いゆえに「これは自分を揶揄したものだ」と怒りを買ってしまった事例もあると聞きます。

「傷つけない笑い」を達成するには、極論的には不思議なキャラ、動きなどで演者(漫才師)そのものを笑ってもらうか、世界観そのものを笑ってもらうタイプのコント以外の手が無くなります。ヨネダ2000の「ペッタン」連呼のやつとか、男性ブランコの音符を運ぶやつがその極致に近いようなネタですね。

しかし「不思議」も「大衆の無意識の常識(≒偏見)」を裏切ることで成立しているわけですから、負の感情が湧く人がゼロで笑いのみが起こる現象というのは原理的には起こり得ません。どれだけ工夫を施してもなお、ネタのテーマや言い回し、連想される出来事で誰かが傷つくことも無くすことはできないでしょう。

上に貼った紳助竜介の漫才では冒頭で「それがお笑いだというのが分からん奴がいる」ということ自体をネタにしていましたよね。近年は、「お笑いなんだから、そうと分かる人が笑ってくれ」という業界側のロジックに対して「そういう無意識な言動が人を傷つけているのだ、イジメと同じだ」という意見が強く見られていたように思います。

そういう空気もあって、「これはdisりだよね」という例に挙げたさや香も真空ジェシカも、人が傷つかないように配慮してとても巧妙に作ってあります。

さや香は30そこそこで免許を返納するボケとその親父が81歳である設定に意識がガッツリ引きずられるのと、ツッコミの勢いと漫才自体のテンポが良いので、あまり負の感情を掻き立てられないまま漫才を最後まで見てしまえるんですよね。(なお僕は「免許奉納や!」でオトしているとなお良かったと思っています。)

真空ジェシカはコント漫才で、風貌と世界観に独特な空気感があるので、シルバー人材センターをネタにしていても現実の何かが傷つけられる感じがあまりしません。年金格差という風刺も、「若い世代が色々言うから卑屈になってる!」という設定とツッコミで、「お前ら貰いすぎちゃうんかふざけんなよ」という切り口と違って傷つけている感じがあまりしないわけです。

さて、ここでウエストランドのネタを見てみましょう。

「○○にはあって××にはない」という「あるなしクイズ」に答えていく形で、向かって左の井口が悪口ばかりを言っていくスタイルをとっています。

分かりやすい悪口なので悪口漫才と言われていますが、彼らは彼らで巧妙なギミックを用いて「受け入れられやすい悪口」のスタイルをとっています。

派手な服装で背が低く、お世辞にもあまり顔面が良いとは言えない井口が必死に悪口を言いますが、すべて僻みから来ていることがよく分かる内容と言い回しになっています。相方の河本はそれをちょっと白い目・遠い目で見るようなスタイルです。

これによって、「しょーもない弱い奴がなんか喚いている」と上から構えて観ることができるようになります。一方で繰り出される僻みの悪口からは、観客のおそらく誰もが少しくらいは持っている僻みや偏見を刺激されるんですよね。

このスタイルは、僕が高校時代大好きだったテキストサイト「Numeri」の手法に近いと思います。

Numeriの管理人、patoさん(今はライターとして活躍中、Twitterもあるよ!)は結構色々なものにエキセントリックな悪口をカマしていくのですが、世の中の幸せなカップルたちへの僻み根性がよく分かるようになっているし、何より本人や父親の頭おかしい言動で「上から何かを攻撃している感」をまったく感じさせないわけです。

長くなるので書くのを据え置いていたのですが、もう1つの要素についてTwitterでリプを頂いていたので、追記することにしました(なんか「し、知ってたし!」って感じが出て小物っぽいですね)。

そう、それは悪口の対象の広さです。「恋愛ドラマはみんなワンパターン」「YouTuberはみんな警察に捕まり始めている」など、無理筋の悪口だからこそ井口の小物感を演出できているし、悪口対象の属性の人たちに精神的な猶予を与えていると思います。「過去の悪口芸」や「世の中で燃える悪口」などの例がある程度共有されているからこその、この形になっているんでしょうね。笑い、とは本当に世の中の風潮という前提がとても大事だと分かります。

お笑い芸人の「悪口を聞かせるギミック」はいくつかあります。分かりやすいとこで言うと長井秀和やだいたひかるは「間違いない」や「どうでもいいですよ」といった「おなじみのフレーズ」、はなわは「歌のメロディやリズム」、ヒロシは「自分のショボさがより際立つスタイル(BGMや田舎の方言)」……などですね。ヒロシの「ショボさの演出」はウエストランドにも少し通ずるところがあります。今あげたのは全部ピン芸ですが、ウエストランドはこれを漫才の形で出してきたというわけです。

笑いは「何かを傷つけてしまう」ことを本質的に内包しています。これまでの漫才はそれをフンワリと形にしていた(ように観客には見える)わけですが、ウエストランドは「悪口とわかるもの」を特定のスタイルの漫才として表現したというコンセプト的な意味で評価された部分も大きいと思います。「それを着て歩くかどうかは別にしてそのコンセプトは素晴らしいよね」というファッションショーみたいな感じですかね。

世の中はしばらく「人を傷つけない笑い」を模索してきました。けれど、突き詰めていくとそれが本質的に不可能であることが分かりました。また今は江戸時代のような明確な身分格差がありません。「人を傷つけるな」と言う側にも一定の攻撃性があります。ここ最近は「傷つけるなと言ってもどうしたらええんや」という閉塞感があったのではないでしょうか。

社会からハミ出た芸人がお客を笑わせる時代があり、テレビの普及とブームの結果芸人を目指す人が増える時代がありました。今はSNSが発達し”素人”が芸人を評価したり発信したり場合によっては直接芸人と絡む時代になりました。社会の、そして個人の交流は無限のパターンがあり得る時代です。

お笑いの中で、絶対に誰かを傷つけないということは無理。でもそう居直るわけにもいかない。笑わせる側はそれを分かって傷つける。傷つけられたと思った人も、そのギミックに理解を示し、「自分が好きな笑い」にも本質的には他の誰かを傷つける何かがあることを自覚する必要がある。「笑いの双方向性」がより求められる時代になってきたのではないでしょうか。

ネタとしての面白さはもちろんありますし、1st ラウンドで丁寧に説明してアクセルがかかったネタを、そのままのスピードで決勝ラウンドにぶつけられた運の良さもありますが、ウエストランドの優勝はそんな時代の象徴的な一幕なのかなと思いました。

オチはこれ。

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