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恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。全文公開

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僕の小説『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』を全文公開します。
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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開①恋愛には四季がある

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開①恋愛には四季がある

 人はなぜ、バーテンダーに恋の話をするのだろう。バーテンダーは利害関係の外にいるから、あるいは多くの恋愛を見てきているから的確なアドバイスをくれることを期待してといったことがよく言われる。

 でも、本当は特別な理由はない気がする。人はカウンターに座って、酒が入ったグラスを手にすると、なぜか目の前の酒を扱っている男に恋の話をしたくなるのだろう。

 あなたは恋をしたことがあるだろうか。誰かのことを

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開②私を月に連れてって

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開②私を月に連れてって

 私のバーには結婚を控えた交際中の男女がよく来る。渋谷の街で映画やライブを見た帰りに軽くバーで飲んでいこうかなという男女や、休日に買い物をして彼の家に向かう前に二、三杯バーで飲もうかなという男女だ。

 そんな彼らはある日、「今度僕たち結婚するんです」とバーテンダーである私に告げる。バーテンダーとしては、一番嬉しい瞬間だ。どういうわけか、私も彼らの恋愛劇の脇役になっているような気がして、ハッピーエ

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開③女優との恋

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開③女優との恋

 アメリカのマイケル・フランクスという歌手の『ザ・レイディ・ウオンツ・トゥ・ノウ』という美しい曲がある。

 この歌の中では彼女は「なぜ彼が去ってしまったのか」とずっと理由を知りたがっている。

 十一月の寒い夜には、こんなマイケル・フランクスの温かい歌声があうだろうと思い、このレコードをかけると、バーの扉が開いた。

 入ってきた男性は、コートを脱ぐと、スーツの上からでも胸板の厚さがわかった。お

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開④街で見かけた恋

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開④街で見かけた恋

 十二月三十一日、人が少なくなった渋谷を歩いていると目に付くのが近代的なビルの入り口の門松だ。おそらく外国人にはとてもエキゾティックに見えるはずだが、日本人としては門松が登場すると年末のゴタゴタはすべて終わったんだと思い、穏やかで静かな気持ちにさせられる。

 こんな静かな夜の空気を埋めるにはこのアルバムしかない、と考えて、私はビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビイ』というレコードを取り出した

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑤ずっと片思い

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑤ずっと片思い

 年が明けた一月の上旬。少しだけまだお正月気分が残っている渋谷はいつもより閑散としている。時折冷たい風が吹き、道を歩く人たちは暖かそうなお店に吸い込まれていく。

 こんな夜は何かロマンティックな音楽でお店を暖めようと考え、映画『ティファニーで朝食を』のサントラのレコードを棚から取り出した。

 このアルバムの中に『ムーン・リヴァー』という曲がある。ヘンリー・マンシーニが作った世界で一番美しい曲だ

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑥15歳年下の彼との恋

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑥15歳年下の彼との恋

 ヴァレンタインのチョコレートが街中で売られ始めた二月のまだ寒い夜。

 私はダイナ・ショアがアンドレ・プレヴィンのピアノで『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』を歌っているレコードを棚から出した。

 この曲は女性が愛する男性のことを歌う、こんな内容だ。

「ねえ。大好きな私のヴァレンタイン。ずっといて。

 だってあなたさえいてくれれば、私にとっては毎日がヴァレンタインデイなんだから」

 幸せい

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑦お母さんがくれた魔法の口紅

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑦お母さんがくれた魔法の口紅

 三月、まだ冷たい風が吹く夜、満開の梅の香りが辺りに漂っている。

 少しだけ春を感じるこんな夜には薄命の美人の歌声が聞きたくなった。

 ビヴァリー・ケニーという美しい女性ジャズ・シンガーがいる。彼女はレコードを六枚だけ残し、二十八歳という輝く年齢で亡くなった。どうやら自殺というのが亡くなった理由らしい。

 彼女が『イッツ・マジック』という曲を歌っている。

「二人、手を取り合って歩く時、世界

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑧桜の花びらのアンパン

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑧桜の花びらのアンパン

 女性ジャズ・シンガーのブロッサム・ディアリーが三十三歳の頃に録音したとても可愛いアルバムがある。その中で世界中のキュートを集めたようなルックスのブロッサムが『春の如く』という曲を歌っている。「この落ち着かない気持ちは春のような気分」という歌詞の通り、歌の間ずっと心が、春のような気分に支配されてしまう。

 四月の最終日。その日は、バーの扉を開け放しておいても大丈夫なくらいの暖かい夜だった。私はブ

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑨昔はモテた私

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑨昔はモテた私

 ゴールデン・ウイークの渋谷は観光地としての表情を見せる。多くの人たちが「一度は渋谷に行ってみたい」と思ってくれるのは渋谷で店をやっている人間としてはとても嬉しい。誰かの五月の休日の思い出が渋谷の風景になるのは誇らしい。

 街の雑踏を感じる音楽を奏でるアーティストは誰だろうと、しばらく考えてみた。

 イギリスにエブリシング・バット・ザ・ガールという男女二人組のグループがいる。彼らはミュージック

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑩いつかあなたを抱きしめる

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑩いつかあなたを抱きしめる

 ある時、外国人同士のお客様がカウンターで「日本の六月はレイニー・シーズンだからね。雨の京都や鎌倉はとても綺麗だよ」という話をしていたことがある。

 なるほど、梅雨のことを彼らはレイニー・シーズンと呼ぶのだ。雨の季節は心が少しだけ重たくなるが、雨が降る街はとても美しい。その夜も渋谷に雨が降っていた。

 雨が降る空気が少し湿った夜にはどんな曲があうかしばらく考えてみて、『オール・ザ・シングス・ユ

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑪さっき恋が終わった

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑪さっき恋が終わった

『恋はあせらず』という曲がある。ダイアナ・ロスが在籍したシュープリームスがヒットさせたとても明るいR&Bの名曲だ。

「私には恋が必要。でもママは言った。恋はあせっちゃダメ。待つだけでいいの。時間をかけて」という内容で、女の子のあせる気持ちをなだめるとても可愛い内容の歌だ。おそらく全世界中の女の子が恋に落ちた時、これを聞いて「あせっちゃダメ」と言い聞かせて歌い継がれてきたはずだ。

 七月の晴れた

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑫恋は贅沢品

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑫恋は贅沢品

 最近の東京の八月はまるで熱帯地方のスコールのような雨が降る。その日も、昼の間は灼熱の太陽が渋谷の街に照りつけていたのに、五時頃になると黒い雲がたちこめ、大粒の雨が降り出した。しかし三十分後には完全に雨は上がり、南の島の夕方のビーチのような爽やかな風が渋谷の街を通り過ぎた。

 日が落ち、さっきまでオフィスで働いていた人たちがビルの外に出て「え、雨、降ってたんだ」と驚きの声をあげている。

 夜空

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑬自分をブスだと思っている女性の恋

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑬自分をブスだと思っている女性の恋

 今夜はバート・バカラックの『アイル・ネヴァー・フォーリン・ラブ・アゲイン』をかけることにした。タイトル通り、失恋した女性の気持ちを歌う曲で、曲調はとても明るくて可愛いのに、どこか切なさがひっかかる。たぶん泣きながら一緒に歌った女の子が世界には何十万人もいて、その彼女たちの気持ちがこの歌に染み込んでいるのかもしれない。もう二度と恋なんてしない。いいタイトルだ。

 九月、昼の間はまだまだ暑いが、夜

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『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑭後悔する男と次の恋に進む女

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開⑭後悔する男と次の恋に進む女

『ジャスト・フレンズ』という失恋を歌った有名なジャズ・スタンダードがある。今はもう「ただの友達」で、「二度と以前のような恋人同士には戻れない、キスなんてない……」という切ない歌だ。

 おそらく全世界の失恋した人たちがこの曲をバーやクラブでリクエストしてきたのだろう。たくさんのジャズ・シンガーがこの曲を歌っているが、私のバーではプリシラ・パリスというお人形のような綺麗な顔をした白人女性歌手が歌う『

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