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バー・ムーン・ビーチ

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月にあるバーの話です。
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バー・ムーン・ビーチ 窓と扉

バー・ムーン・ビーチ 窓と扉

今夜は、少しうつむきがちだが、明るい笑顔の女性が来店した。

彼女は、「何か華やかな気持ちになれる飲み物を」と注文したので、私はライチの香りがするゲヴェルツトラミネールという品種の白ワインを出した。

彼女はそのワインに口をつけるとこんな風に話し始めた。

「私の部屋は窓も扉もなくて、暗くてとても寂しかったんです。

このままではいけないと思って、腕があるので有名な初老の大工さんを呼んでこう言いま

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バー・ムーン・ビーチ 第2の恋

バー・ムーン・ビーチ 第2の恋

今夜は若い男女が来店した。

女性はアマレットをアイスティーで割ったものを、男性はブッカーズをオン・ザ・ロックで注文した。

二人は「乾杯」と言い、恋について話し始めた。

「恋はね、会いたいことなの」

「うん」

「会いたいけど、すごく会いたいんだけど、会えない状態のことを恋って呼ぶの。メールが来てたりはするんだけど、でも会えなくて、はあ、会いたいなあ。会いたいって思うのが恋の正体なの」

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バー・ムーン・ビーチ 失恋を見ない

バー・ムーン・ビーチ 失恋を見ない

男性は「何かメルロー種のワインを下さい」と注文した。

私はバランスの良いサンテミリオンのワインを開け、男性の前に出した。

「マスターはおいくつですか?」と男性が私に質問した。

「48歳です」

「そうですか。私も48歳です。最近、私たちの年齢くらいになってくると、失恋って聞いたことがないですよね。

私たちが大人になってしまったからなのでしょうか。

たまに友人から聞く言葉は、すべて『恋がし

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バー・ムーン・ビーチ 詩人来店

バー・ムーン・ビーチ 詩人来店

今夜は詩人が来店した。

詩人は「ペルノーをロックで」と注文した。

私が「どうやっていつも美しい言葉を紡ぎ出すんですか?」と質問した。

すると詩人が「これをかけるんだよ」と言って、詩人のメガネを貸してもらった。

それで私はそのメガネをかけて世界を見るとそこは死の世界だった。

私が困った表情をしていると詩人がこう言った。

「君の言葉でこの世界を生き返らせると良いんだ」

詩人は静かにペルノ

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バー・ムーン・ビーチ 階段

バー・ムーン・ビーチ 階段

男は入ってくると、棚を見て、「グレンリヴェットの12年を、そのままでください」と言った。

グレンリヴェットを出しながら、「旅行中ですか?」と私が聞くと、「階段を上がっている途中なんです」と答えた。

「階段を上がっている途中?」と聞くと、こんな風に話し始めた。

「気づくと、階段を上がっていたんです。

時々、人とすれ違うと、みんな不思議そうな顔で僕を見ました。

最初はどうして不思議そうに僕を

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バー・ムーン・ビーチ 誰かの夢の中

バー・ムーン・ビーチ 誰かの夢の中

今夜は30代後半くらいの女性が来店した。肩までのボブで、アーモンド型の瞳が印象的だ。

彼女はズヴロッカで作ったウオッカ・トニックを飲みながらこんな話を始めた。

「マスター、夢って育てられるって知ってましたか?」

「そうなんですか?」

「私がまだ小さい頃、病気がちだった叔母さんが教えてくれたんです。叔母さんって言ってもあの当時はまだ40歳くらいで独身でとても綺麗な人でした」

「夢ってどんな

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バー・ムーン・ビーチ 恋を失った男性

バー・ムーン・ビーチ 恋を失った男性

恋を失った男性が来店した。

男性が、「何か苦いお酒をください」と言うので、私はフェルネ・ブランカをすすめた。

男性はフェルネ・ブランカを飲むと、ひとこと「苦いですね」と言った。

私は「どんな風に恋を失ったんですか?」と聞くと、「糸電話なんです」と、ひとこと呟いて、こんな風に話し始めた。

「彼女が紙コップのようなものを差し出しました。

僕が不思議そうな表情をすると、彼女は「これ、耳に当てて

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バー・ムーン・ビーチ 月を眺める少年

バー・ムーン・ビーチ 月を眺める少年

今夜は誰もお客様が来ない。バーにはそういう夜もある。

私は看板をいれて、灯りを消し、店を閉めた。

気の抜けたクレマン・ド・ロワールをグラスに注ぎ、ぼんやりと飲んでいると、「そうだ、久しぶりに地球を眺めてみよう」と思いついた。

ご存じのように、月から眺める地球はとても美しい。望遠鏡をとりだし、私は地球を眺め始めた。

すると、こちらを望遠鏡で見ている少年と目があった。

私は右手を軽く振ってみ

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バー・ムーン・ビーチ 鏡になった男

バー・ムーン・ビーチ 鏡になった男

今夜は鏡になった男が来店した。

男はブルゴーニュのマールを注文した。

私が「なぜ鏡になったんですか?」と質問するとこう話し始めた。

「あるとき、テレビを見ていたら、ある高齢の女性が『長生きの秘訣は?』と質問されて、『毎日、鏡を見ること』と答えていました。

どう思いますか? 女の人が鏡を見ることの意味と効果。

女の人は鏡を見ます。思春期の時は朝から晩までずっと自分の部屋で鏡を見ています。

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バー・ムーン・ビーチ 冬の待ち合わせ

バー・ムーン・ビーチ 冬の待ち合わせ

今夜は冬が来店した。

私の顔を見るなり、「待ち合わせだ」と言い、カウンターの席に座った。

ずっとイライラして時計を見ている。

私が「お飲物はどういたしましょうか?」と聞くと、「俺は冬なんだ。温かいのに決まってるだろ」と答えた。

私が冬の前にヴァンショーを出すと、一口飲んで、「うまい」と言った。

「さっきからずっと時計を見ていますが、お待ち合わせの方は遅れてるんですか?」

「すごく遅れて

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バー・ムーン・ビーチ 魔法のクレヨン

バー・ムーン・ビーチ 魔法のクレヨン

少し影のある美しい女性が来店した。

彼女はゴディバのチョコレート・リキュールをオン・ザ・ロックで注文した。

私は彼女の前にゴディバのオン・ザ・ロックを出すと、彼女は少し口につけ「ああ、美味しい。死ぬ前にこういうのもっと飲んでおけばよかった」と言った。

「え? 死ぬ前ですか?」

「はい。私、ついさっき死んでしまって、今、天国へと向かう途中なんです」

「そうですか」

そして彼女はこんな風に

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バー・ムーン・ビーチ 指輪をなくした彼女

バー・ムーン・ビーチ 指輪をなくした彼女

はにかんだ笑顔が素敵な30歳くらいの男性が来店した。

彼は「この間、子供が生まれたんで、シャンパーニュ、いただけますか」と言った。

「そうですか。おめでとうございます」と言いながら、私はブルーノ・パイヤールのシャンパーニュを開け、彼の前に出した。

「ありがとうございます」と言って、シャンパーニュに口をつけると、彼はこんな風に話し始めた。

「彼女との初デートは時間旅行だったんです。

もちろ

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バー・ムーン・ビーチ 恋って何?

バー・ムーン・ビーチ 恋って何?

今夜は5歳くらいの男の子が来店した。

私が作ったホットレモネードをふうふうとしながら彼は私にこう質問した。

「ねえ、恋って何?」

「恋はね、誰かをすごく好きになることなんだ」

「ママのことすごく好きだよ。それは恋なの?」

「それは恋じゃないな。君はママにいつでも会えるでしょ。恋はね、めったに会えないんだ。ご飯を食べてるときも、お風呂に入ってるときも、会いたいなってずっと心の中でその人のこ

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バー・ムーン・ビーチ 海賊の初恋

バー・ムーン・ビーチ 海賊の初恋

その夜は海賊が来店した。

世界中の荒くれの船乗りたちもその海賊のことだけは恐れたという伝説の海賊だ。

彼は人を殺すことになんの苦しみも感じていなかった。コックが料理を作るのが仕事のように、詩人が新しい言葉を探し出すのが仕事のように、彼は目の前の罪のない人間を黙々と毎日殺し続けた。

彼は「ロン・サカパの23年物をオン・ザ・ロックで」と注文した。

私がロン・サカパを出すと、海賊はゆっくりと飲み

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