ブロッサム

5年ほど前に住んでいた永福町の駅前にブロッサムというパン屋があった。

ブロッサムはバゲットとパン・オ・ショコラとアンパンだけしか扱っていないパン屋で当時いっしょに住んでいた彼女の大のお気に入りの店だった。

春になるとアンパンの窪みのところに桜の花びらが埋め込まれたタイプのものが登場して、彼女は春が近づくと「ブロッサムのアンパン、桜になったかなあ」と確認のために毎日通いつめた。

ブロッサムは店の奥の方で50代半ばくらいの神経質そうな男性が黙々とパンを焼いていて、レジのところに30歳前後のいつも寂しそうな目をした女性が立っていた。

レジの後ろには茶色いレコード棚と小さなターンテーブルがあり、その寂しそうな目の女性が丁寧にレコードをかけていた。そしてかかるレコードは全てがブロッサム・ディアリーだった。

彼女が桜の花びらのアンパンを食べながら「あの二人って夫婦なのかなあ」とよくつぶやいた。「今度聞いてみれば良いじゃない」と僕が言うと「聞いてみたいんだけど、違ったらどうしようと思うとなんか聞けなくて」と答えた。

一度だけ井の頭公園の動物園でブロッサムの二人を見かけたことがあった。二人の真ん中には5歳くらいの男の子がいて3人で手をつなぎ笑いながら象を眺めていた。それをみつけた彼女が「あ!」と指をさし、僕はうなずいた。

その後、僕が彼女をひどく傷つけてしまい、彼女は出ていってしまった。そして僕も彼女とのことを忘れるために、すぐに東横線の方に引っ越してしまった。

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半年ほど前、フェイスブックを見ていると彼女を発見した。彼女は結婚して名字が変わってしまい、生まれたばかりの赤ちゃんもいるようだった。そしてもちろん友達のリクエストはしなかった。

でもなんとなくあの頃のことが懐かしくなって、久しぶりに井の頭線に乗って、ブロッサムの桜の花びらのアンパンを買いに行った。するとブロッサムはシャッターが閉まっていて「閉店」と貼り紙があった。

僕はその場で写真を撮って、帰りの電車の中でフェイスブックに「残念。桜の花びらのアンパンがもう食べられない」という投稿をした。

そんな投稿も忘れてしまって、久しぶりにフェイスブックを開いたら、赤ちゃんと一緒のアイコンの彼女がブロッサムの閉店の写真に「残念!」と一言だけコメントを残してくれていた。

#引っ越し #超短編小説


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