恋は贅沢品

先日、市子さんが来店して、こんな話を始めた。

「林さん、最近、私、恋をしてるんです」

「あれ? 市子さん、結婚してますよね」

「してますよ。旦那ともちゃんとうまくいってますよ。そんなことわかったうえで、最近、すごく恋をしてるんです」

「恋ですか…、でも市子さんみたいな既婚者がどういう風に恋が始まるんですか?」

「最初は仕事の関係でメールをしてたんですけど、たまに私が『あの映画、観ましたか? すごく良いですよ』って感じのことを書いたら、彼も自分のことを書き始めて、いつの間にか仕事のことは関係なく、メールを往復するようになったんです」

「なるほど。普通は仕事の事務的な用件だけで、ちょっと天気のことや共通の知人のことなんかを書いて、それで終わりですよね。そんな風に始まるんですね」

「そうなんです。

あ、メール来てるってわかって開けるのにドキドキするじゃないですか。で、何か私だけを意識したこと書いてないかなあって何度も読み返したりしますよね。この言葉ってどういう意味なんだろう、もしかして誘っているのかなとか考えますよね。ちょっとした絵文字でさえもどういう気持ちなんだろうって色々勘ぐります。

そして、『ああ、やっぱりこの私の今の気持ちはすごく恋が始まっているんだ』って確認するんです。

私、その『あ、恋が始まった』って瞬間がすごく好きなんです。この感覚って結婚したり年齢を重ねたりしたら、もうなくなるものだと昔は思ってたんですね。

でも、こんな風にやっぱり『恋』って始まるんだあって思うと、人間ってすごいなあって思うんです。

林さん、子供を作るのが目的じゃないのに異性にひかれるのって人間だけなんです。こういう特別な感覚があって、その恋を感じるとこんなに特別な気持ちになれるのに、『もう恋なんて』ってもったいないです。

私、こんな風に自分の心の中に恋が始まってくる瞬間がすごく好きで、『恋って贅沢品だなあ』っていつもいつも思うんです。たぶん、高いコートやすごく美味しいレストランなんかよりずっとずっと贅沢なんです。

この感覚を忘れてしまったり、もう自分は関係ないなんて思っているのってもったいないなあって思うんです」

「なるほど。それで今はその恋の相手とはどんな感じなんですか?」

「最近、たまに電話しているんです」

「え、電話ですか。それだけなんですよね」

「ええ。電話、楽しいですよ。彼の声が耳元で聞こえるとドキドキするんです。私の声も彼の耳にそんな風に届いてるかなあって想像してみるんです。今、もしかして切りたがってるのかなあ、話を終わらせようとしているのかな、あ、でも新しい話題が出てきたから切りたくないんだなとかすごくドキドキしますよ」

「市子さんの気持ちは伝わっているんですか?」

「林さん、そんなに急がなくて良いんです。恋は贅沢品って言いましたよね。ゆっくりゆっくりと味わうのが良いんです」

「むこうは市子さんのことをどう思ってるんですか?」

「うーん、どうなんでしょう。たぶん同じくらいな気持ちなんじゃないですかねえ。もしかして私の片思いかもしれないし。でもどっちでも良いんです。そんなに急ぐ必要はないですから。だから恋は楽しいんです」

市子さんはそう言うと、キリっとしたロゼのスパークリング、クレマン・ド・ブルゴーニュに軽く唇をつけた。

#小説 #超短編小説

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林伸次

超短編恋愛小説

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コメント8件

かねきょさん 不思議ですか?(笑)
ヒゲメガネさん tamitoさんがヒゲメガネサンすごい働いてるねって言ってましたよ!
笑、いや、ホント働いてますよ、ここんとこずっと。変なもの食べたのかな?
既婚者にとって、恋はデザートだと私も常々思っていました。
別に無くても生きていける。もっと大切な家族は主食で。
でも、デザートがあると、甘くて幸せな気持ちになれる。
甘い甘い罠ですね。
友達は不倫は麻薬だって言ってました。
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