ブラジルのバールの思い出

そのバールはブラジルのバイーアにあった。

その店はマンション群に隣接する小さな商店街にあり、広さは30坪くらいで、中にカウンターがあり、オープンテラスで丸いテーブルが道路の方まで並べられていた。

ブラジルのどんな街にも必ずあるスタイルのお店で、簡単な軽食や生ビール、コーヒーやスイーツやパンを扱っていた。

ブラジルの朝ご飯は濃いコーヒーに日本の給食によく出てくるコッペパンのようなパンを食べる。そしてそのパンを毎朝、その家庭の子供が近所のお店まで買いに行くのが大体決まりになっている。

私はブラジルの普通の人たちの生活を見たかったので、その家庭の子供がパンを買いに行くのによく一緒についていった。

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バイーアでは10日間、ある中流の黒人の家庭で居候をさせてもらった。

ご主人は40歳くらいで建築の仕事をされていて、奥様は30代後半で美術館に勤めていた。子供は二人いて、上の男の子が15歳で、下の女の子が10歳だった。

その家に迎え入れてもらった最初の日、奥様が私にキスをして、家の中の部屋をひとつづつ「こちらがリビング」、「こちらがトイレ」と案内し、そして家族をひとりづつ紹介してくれた。

その時、キッチンに若い白人女性がいて、私が挨拶しようとしたら「彼女はお手伝いだから(挨拶しなくて良い)」と言われて、私はその白人女性には目だけで会釈をした。

そして奥様が大きな冷蔵庫を開け、私に「シンジ、冷蔵庫の中のものは自由に食べて飲んで良いからね」と告げた。

ちなみにブラジルのどの家庭に行ってもこの言葉を言われるのだが、これは本当にその通りに勝手に冷蔵庫を開けて、中のコーラやビールを飲まないと、「自分の家のようにリラックスしていないんだな」と思われることになる。

さらに居候させてもらうことに関しても、「何日でも好きなだけ泊まっててほしい」と本気で考えているらしい。

そしてその彼らの厚意に対して、こちらがお金を払ったり、贈り物で返そうとしたら本気で怒られてしまう。

一度、このあたりのブラジル人の感覚をブラジル人に詳しく聞いてみたところ、「私たちはシンジが泊まるところがなくて困っているから自由に使ってもらってるんだ。シンジもまた誰か困った人がいれば、シンジの家を誰かに自由に使ってもらえば良いんだ」と教えてもらった。

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その家のパンを買いに行くのは15歳の男の子の役割だった。彼はどちらかと言うと文化系男子で、日本のマンガなんかにも興味があるみたいだった。

私は彼とはとても仲良くなり、「好きな女の子はいるの?」とか「告白したの?」といった話でよく盛り上がった。

そしてその朝もそのバールに二人でパンを買いに行きながら、日本の話になった。

彼が「日本の朝ご飯ってどんな感じなの?」と聞いてきたので、「白いご飯に、魚の焼いたのに、豆のスープがつくんだよ」と答えながら「いつか日本に来てよ。いろんなところに連れていくよ」と彼に言ってみた。

すると彼の表情が曇り、「シンジ、残念だけど経済的に僕たちは日本に旅行をすることなんて不可能だよ」と言った。

広いマンションに住んでいて、通いのお手伝いさんもいて、ご両親も知的な職についているのに、15歳の彼が「海外旅行は出来ない」ということを知っていた。

そして私は日本ではただのレストランのウエイターのアルバイトなのに、こんな遠くまで観光旅行に来ているという事実に世界の現実を知った。

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夕方になるとその家庭のご主人とよくそのバールに行った。

彼はブラジルによくいる身体が大きくて寡黙なタイプで、とても優しい笑顔を見せた。私にわかるようにゆっくりとポルトガル語を発音してくれて、「シンジは日本でブラジル音楽がかかるバールをやりたいんだって?」と息子さんから聞いたらしい情報を私に言った。

私は彼とカウンターに寄りかかり、ブラーマの生ビールを飲みながら好きなサンバについて語り合った。

彼がカウンターで飲んでいると、夜なのに路上生活をしている子供たちがよく寄ってきて、食べ物をせがんだ。

すると彼は財布をとりだし、そのバールのスタッフに「この子たちにたっぷりパンを食べさせてやってくれ」と言った。そして必ず「バターもたっぷりつけるのを忘れないでくれよ」と最後に付け足した。

「日本についたら手紙を書くよ」と彼らには言ったのだが、薄情ものの私はハガキのひとつも出していない。

あれからちょうど20年経っているので、あの男の子も35歳になっていることだろう。ご主人も60歳くらいのはずだ。

インターネットで検索すれば見つかるかもしれないのだが、名前もすっかり忘れてしまった。

私のダメなところだ。

そして私が今でもはっきりと覚えているのは、あのご主人の「バターもたっぷりつけるのを忘れないでくれよ」と言っている後ろ姿だけだ。

#エッセイ

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