御苑前の蕎麦屋

その蕎麦屋は新宿の世界堂の先を右に曲がって御苑へと向かう通りの右手にある。

店内はカウンターに6席、テーブルに3席とかなり小さいのだが、歩道に大きいテーブルを出していて、そちらには10人くらいが座れる。

最初はホルモン焼き屋か焼鳥屋なんだろうと思っていたのだが、ある時、私の妻が蕎麦屋だということを知り、その後、二人で通うようになった。

私は飲食店では注文するものを決めてしまうという癖があり、例えば街場の中華料理屋に入ると必ず中華丼を頼んでしまう。

一度、中華丼と決めてしまえば、ここの中華丼のキクラゲはシャキシャキして噛みごたえがあるぞとか、ここの中華丼のイカはプリプリしていて美味しいといった具合にお店の方針の違いを比較することが出来る。

そして蕎麦屋に関しては、夏は冷やしタヌキ蕎麦、冬は温かいキツネ蕎麦と決めていて、ああ、このお店の冷やしタヌキ蕎麦は錦糸卵とキュウリの千切りが入っている、これは冷やし中華を意識しているんだな、とか、このお店のお揚げはふかふかだ、といった具合にそれぞれのお店のこだわりを楽しんでいる。

その御苑の前のお店は、揚げ玉が私の理想通りで、形が揃っていなくてサクサクしている。それを少し箸でつかみワカメとワサビと絡めると絶品だ。

そして温かいお蕎麦のお汁の出汁が美味しいのも気に入っているのだが、これだけ何度も通ってしまう理由はお店の人の雰囲気がとても良いからだ。

店主と思われる方は70歳を少し過ぎたくらいの男性で、メガネをかけごま塩の短髪だ。黙々と蕎麦を茹で、湯を切り、器に盛るという作業をまるで何かの宗教儀式のようにこなしている。そして私はまだその方が声を出しているのを聞いたことがない。

その隣には40代半ばと思われる短髪で瞳の大きい綺麗な女性がいて、お蕎麦の上にのせる天ぷらやとろろなんかの用意を担当している。どうしても気になるのはこの女性とその店主との関係で、私は実の娘だとにらんでいるのだが、私の妻は姪っ子なんじゃないかと言う。なぜ娘じゃなく姪っ子と感じるのか、その辺りの理由がよくわからないのだが、妻のそういう発言はよく当たるので、そんなものかなと思っている。

そして店内で注文をとる人がいるのだが、祝日のときは30代くらいの元気で綺麗な女性がいて、その人が調理をしている女性と似ているので、私は彼女たちは姉妹だとにらんでいる。そして、そのことに関しては妻も同意していくれている。

平日になると60を少し過ぎたくらいの男性が店内で注文をとっていて、この方の接客がやたらと丁寧で、以前はどんな職業をしていたんだろうと、とても気になる存在である。

私は最初のうちは料亭か何かちょっと高級な飲食店で働いていた方なんだろうなと思っていたのだが、先日、そのお店で生ビールを頼んだところ、その60過ぎの方がビール樽の交換のやり方がわからず、厨房で調理をしている女性を外に呼んで、交換してもらっているのを見て、そうか、飲食業ではなく、もっと違う種類のサービス業だったんだな、ますます気になる存在だなと、今、一番注目している人である。

私と妻は新宿でヨガをした後のランチの時間にそのお店を利用するのだが、そのお店の本当の魅力は夜の時間なんだろうなというのは最初に入った時からわかっている。

カウンターの上には黒板があり、そこにはちょっとしたおつまみがいくつか書いてある。私と妻はそれを眺めながら、「今度、夜来たら、あじの南蛮漬け500円と菜の花のお浸し200円を頼んで、この蕎麦焼酎をそば湯で割ってもらおう」と言い合って、その夜の食事風景を想像するだけで楽しくなってくる。

そしてその夜の御苑の前の蕎麦屋の食事は、いつまでたっても実現しないというのも私と妻はわかっていて、でも、もし夜来たら、このお店の人たちはどうやって私たちを迎えてくれるだろう、「あら、よくお昼にいらっしゃる方たちですよね」とこの女性が言ってくれたりするのだろうか。

そして、このお蕎麦を黙って茹でている70過ぎの店主は、私たちに「今日は寒いね」なんて言ってくれるのだろうか、なんていうのを想像すると嬉しくなってくるお店なのだ。

#コラム

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この記事は投げ銭制です。この後、オマケで僕のちょっとした個人的なことをすごく短く書いています(大したこと書いてません)。今日は「ひどいことを言われたら」です。

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