白木で学んだこと
その和風レストランは代々木八幡の銭湯のすぐ近くにあった。
小さな一軒家で、名前は白木。「白木のおばさん」と呼ばれる60代くらいの白髪の女性と、厨房に同じく60代くらいの男性が一人、そして白木のおばさんの姪の30代くらいの女性の3人でお店を切り盛りしていた。
和風レストランといっても、定食があり、私は「牡蛎フライ定食」や「カニクリーム・コロッケ定食」をよく食べた。
他のお客は何かをつまみながらお酒を飲んでいたので、お刺身やちょっとしたツマミもある居酒屋的なお店だったのかもしれない。
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私が中古レコード屋のレコファンで働いていた20代前半の頃、ブラジル音楽に夢中になった。
そして、その美しい音楽の中でブラジル人はどんなことを歌っているのか知りたくなって、ポルトガル語を習いたいと思った。
いろんな人の紹介をつたって、ヴィセンチ・メンデスというカリオカ(リオっ子)からポルトガル語を習うことになった。
ヴィセンチはハーバードを出ていて、当時は日本の上智大学で学んでいた自他ともに認める「言語オタク」だった。
ヴィセンチの父親はクラシックの指揮者だそうで、ヴィセンチ自身も音楽に造詣が深かった。
普通のブラジルの若者に「どんな音楽が好き?」と質問すると、だいたいは「ロックが好き」とか「レゲエが好き」と戻ってくるのだが、ヴィセンチは「クラシックも好きだけど、ジスモンチやエルメート、カルトーラやジョビンも好き」と答えた。
そんなヴィセンチとポルトガル語を習い始めたら、勤め先のレコファンの上司の女性が「林くん、ポルトガル語、習ってるんだって。私も今、ブラジル音楽がすごく好きだから一緒のところに習いに行ってもいい?」と言ってきた。
その女性が後に私の妻になるのだが、たぶん当時の彼女は、私が通っていたのは「ポルトガル語教室」みたいなのを想像していたのだと思う。
しかし、私が受けていたのはヴィセンチという個性的な留学生のプライヴェート・レッスンで、場所は代々木八幡の白木という和風レストランだった。
ヴィセンチの授業は本当に面白かった。「言葉」をいろんな角度からとらえ直し、見つめ、私たちを本物の理解へと導いた。
ヴィセンチは言語という森が大好きだった。その森の中の木である文法を愛し味わいつくし、一枚一枚の葉っぱである言葉を裏返したり光にあてたりした。そして時には、鳥になって私たち3人を森のはるか高い空に連れていき、「今、僕たちはポルトガル語の森を空から眺めているんだ」と説明した。
毎週一回ヴィセンチと会って、2時間みっちりとポルトガル語を習うのは私と妻にとって「小さな旅」だった。
そして毎週毎週、小さな旅を重ねたから、私は妻のことを好きになっていったんだと思う。
ヴィセンチがいなかったら、妻とは交際しなかっただろうし、ということはbar bossaももちろん存在しなかったと思う。
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今になって何度も反省してしまうことがある。
あの白木という和風レストランで、ドリンクも頼まず定食3人分だけの支払いで、3時間近くも大きなテーブルを占領していたことだ。
今、お店を経営する人間として考えてみると、毎週1回そんなお客が来るのは大迷惑だと思う。
しかし、当時、「白木のおばさん」は本当にイヤな顔ひとつも見せなかった。
お店が忙しそうなときもよくあったから、私たち3人が大きいテーブルを占領しているせいで、新しいお客さまを何度も断っていたのかもしれない。
あの一軒家は持ち家で、家賃はかからなかったのだろうか、それでお店の売り上げというよりも、外国人や若い人たちが学んでいるということを面白がってくれたのだろうか、と色々と考えてしまう。
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そしてやっぱり思うのは、白木でポルトガル語を学んだあの小さい旅がなければ、妻とは親しくならなかったし、bar bossaもなかった。
白木は確実に私の人生を変えた。
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あの時の白木での待遇を思い出すたびに「お店は売り上げだけを追いかけちゃいけない」と自分に言い聞かせる。
私は何も感じていなくても、お客さまにとっては「人生を変えるお店」になる可能性は充分ある。
お店はいろんな人が利用する。その人にはその人の人生があり、何かの縁があって、私の店に立ち寄ってくれたのだから、可能な限りお客さまには「心地よい時間」を過ごしてほしい。
あの白木での私たち3人がそうであったように。
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