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And Just Like That...「こんなかんじ」は、どんなかんじ?

かつて友だちと、「自分を『SEX AND THE CITY』に例えるなら誰派?」
という話題で盛り上がったことがあるという女たちは多いと思う。

奔放な自由人サマンサ、現実志向のミランダ、乙女思考で清純なシャーロット、そして恋愛至上主義のキャリー。
初期設定でざっくり分けるとこんな紹介の仕方になるだろうが、実際にドラマを見続けていけば、そんな安易なカテゴライズではくくれないことがわかる。サマンサの優しさ、ミランダの繊細さ、シャーロットの野心、キャリーに内在する矛盾……彼女たちが歳を重ねて成長していきながら移り変わっていった趣味嗜好、複雑で豊かな地層を含めてわたしたちは分析し、愛し、「誰派」?と、たびたび、語り合ってきた。
だから、「恋にSEXに奔放なオシャレ30代女性のNYライフスタイル」という大枠でドラマを見たことがない人たちに茶化されると、そんな単純なもんじゃないんだ!と腹が立ったものだった。

映画版1がヒットしたとき、「独身主義のキャリーが結婚という選択を選ぶのはがっかり」……などとしたり顔で分析する人も多かったが、別に彼女は「独身主義」だったわけではない。恋に失敗し、彷徨し、この人しかいないという思いを相手から、時に自分自身によって裏切られるたびに、結婚というモノに懐疑的になり、また独身であることによって不遇な目に遭うたびに「女一匹、何が悪い」と胸を張って立っていただけであって、ビッグとの結婚に至るプロセスはごく自然なものであったと思うし、それでも簡単にハッピーエンドとはいかない道行きを1ではちゃんと描いていたと思う。
ハイブランドで美しく飾り立てた夢のあるパートだけではなく、心がズタボロになり地味色のセーターでアパートにこもる冬の時間もあった。それでもグレーのセーターにさりげなく巻き付けた赤いマフラーにグッときて、私はその年同じ色のマフラーを探しまくって買ったのだった。

ところが2では、今まで自然とそこにあった、あり続けた「女たちの友情」をことさらサービス満載でピックアップし、そこに非現実なゴージャス旅を誰も頼んでもいないのにプレゼントしてくれ、加えてビッグと人気を二分したエイダンを強引に復活させ(てくれちゃった)たことから、その過剰なきらびやかさが「中年のおしゃはぎ」といった感じでドラマシリーズ未視聴の人たちの格好の茶化し材料になっただけでなく、ファンにさえも「これじゃない……」と不評を買うこととなった。
そりゃあアブダビの豪華旅行だって嫌いじゃない。嫌いじゃないが、セレブレティの成金ライフを見たいならキム・カーダシアンのリアリティショーを見ればいい。
あり得ないスーツケースの山を抱えてオシャレ三昧してる4人、一人一台の高級車をあてがわれてご満悦の4人は自分たちと遠い存在になってしまったように見えた。
キャリーのシンボリックなチュチュドレスだって、映画版だから更にヒダを増しました、とこれでもかというくらい膨らませ、アブダビの市をそこのけそこのけブワブワ闊歩されると、通行に迷惑じゃないかしら?などと思ってしまう。イスラム圏の女性たちだってヒジャブの下ではオシャレよ、という押しつけがましいエンパワーメントも、うるせい、と思った。
私たちはこの4人の友情を充分見てきた。何でもない豪華旅行の飲み会で「私たちソウルメイトよ」と不必要に語りあい、復習させられるのはなんだか逆に寂しかった。そりゃね、旅行中の非現実感につい普段は言わないこと言っちゃったりして熱くなる瞬間だってあるけどさ。
LAにいってヤッピーなセレブのマシュー・マコノヒーに戸惑うくらいの非現実さで良かったのになあ……。

それ以来、私は続編を希望しなくなった。
彼女たちに飽きたのではない。年を取る彼女たちが見たくなったわけでもない。大好きだからこそ、わたしたちの「好き」を雑に掬い取られて過剰にサービスされたくなかったからだし、継続のための無理な波瀾万丈をこさえてほしくなかった。別にエイダンと再会してつい浮気してしまうキャリーを責めるつもりはないけれど、「ほら、あなた方の見たかったエイダンですよー」とされても、それはわたしたちが愛した「恋人のエイダン」ではない。

これは余談だけど、トレンディドラマの真骨頂「抱きしめたい!」が約25年の歳月を経てリユニオンした「抱きしめたい!FOREVER」は、きらびやかだったバブル時代から移り変わり、現実的な老いと経済の衰退を鑑みためちゃくちゃシビア設定のドラマになっていたが、アレはアレで切なかった。浮気三昧の岩城滉一と離婚する浅野ゆう子はそらそうだろうと思ったし、浅野温子が未だに月30万も賃料がかかるヘンテコなデザイナーズマンションに住んでいるとも思わなかったが、せせこましい一軒家でしょんぼり暮らしている姿には、ほろ苦いどころではない苦々しさで目がしばしばした。もちろん2人とも相変わらず綺麗なのだけど。なんせあのキラキラとで温子を追いかけたアシスタントもっくん(本木雅弘)も出てこないし……。

リユニオンというのはかくもむずかしい。昨年ほんとにただの同窓会で留めた「フレンズ」は賢明だったのかも知れない。

……などと長々思っているなか、ついに「SEX AND THE CITY」の続編、「AND JUST LIKE THAT...」がはじまった。

嗚呼、来てしまったか、という思いと、それでもやっぱり見届けたい思い。あの4人はわたしたちの親友だったし、時に分身でもあった。だから、彼女たちが幸せに暮らしているかどうか、知らずにはおれないのだった。

まだ配信される前からSNSの普及によっていきなり第一話のネタバレを踏んでしまい、そのあまりの衝撃に「おい!『グレイズアナトミー』※1みたいなことすんなよ!!」と打ちのめされた。
最初から懸念されていたサマンサ不在の大きな穴はもちろん、大好きな大好きなゲイの夫・スタンフォードがこのドラマの世界からもやがていなくなってしまうこと、ビッグ役のクリス・ノースの残念な現実(それこそ『ザ・モーニングショー※2』みたいなことすんなよ!」)もちゃんと頭にはあるのだが、それでも、まばたきさえ惜しんでみてしまう。そして見終わるとすぐに、女友達に連絡する。

現在第3話。オモシロどころが掴めず、ううむ……となっている。
物語の流れ上、ウキウキしづらい展開なので仕方ないし、これまでのおさらい、という時期なのだろうけど。
愛しいSATCの登場人物たちがただ出てくるだけで謎の涙も流れるし、不在なはずのサマンサはやたらと健在感を匂わせてくれるので、やらしいながらも「さてはまだ出演交渉中だな?こりゃ最終回のカメオか、シーズン継続によっては復帰の可能性あるな」と予測しちゃったりして、楽しみな部分はまだまだこれからなのだろうが、キャリーたちおなじみ3人の「変わらなさ」が、ホッとする反面で不安にもなる。
「変わらなさ」とはなんだろう?おそらく私が感じているのは、30代の頃から成長していない彼女たちの精神性というより、ダイバーシティ、ポリコレ、色々配慮されてアップデートしている一方で、昔ながらの彼女たちをどうにか出せないかという点で、制作者側が必死におなじみ感を醸そうとしている意識の方にある気がする。でもそのおなじみ感は、なんていえばいいのか、「映画版2」のおなじみ感なのだ……。
ファッションしかり。嗚呼、ファッション!
似せても寄せても追いかけても、どうしたってパトリシア・フィールドのそれではないのは、もういたしかたないのだけれど。なにをどうしてどうやったら今らしいアプローチになるのか、ファッションのセンスが足りぬ私が言えることじゃないのだろうけれど。

そして何より、全体のリズムが圧倒的に遅いのが今は気になって仕方ない。
これは彼女たちの年齢に即したものなのかしら?おそらくはキャリーのコラムが今はなく、トピックを元に進めていく見せ方ではなくなったことが大きいのだけど、紛れもなくあのコラムがSATC独特のリズムを作り出していたのだと今さらに思う。これはこれで普通にドラマとして見ているのだけど、リズムが違うとこうも作品色が違って見えるのかという驚き。

ああ、文句が止まらない。
しかしこんな風に文句たらたらで、それでも食い入るように見ているわたし。それでもエイダン再登場がどうなるのか愉しみにしてしまうわたし。
そんな矛盾がきっと私は、キャリータイプ。
めんどくさい女っていうやつか……。

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