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声なき声に寄り添う物語。

僕の仕事は語り部、つまりストーリーテラーだ。
物語を語る人。とりわけアイルランドやスコットランド西欧に伝わる妖精物語を語っている。(朗読ではない。些か乱暴だが、アットホームスタイルの咄家さんや講談師さんだと思ってくれれば良い)

昔からお話が好きで、話すこと大好きだった。
アイルランドの大学でも「吉男はチャッターボックス(お喋りの意)ね」なんて言われるくらいだから、外国の人から見てもまぁ話し好きに見えるらしい。

だが、それと雄弁である、論客であることはちょっと違うなぁと日々感じている。

最近は、Twitterやここnoteなどで、自分の気持ちを表現する場所が万人に与えられ、誰でも意見を発することが出来るようになった。
それはとても良いことでもあるし、普段はすれ違いもしない人たちの意見を知れたり、時には会話することも出来る。

そんな中で、弁が立つ(この場合は能筆家か?)人がたくさんいるなぁと思うことも増えた。
みなさん、自分の気持ちや思考を言語化するのが上手だなぁと呻ることもしばしば。

それは同時に、人を傷つける事態に発展することを意味するし、嫌と言うほどそれを見てきた。

つい先だって、ある方のツイートで、そういう場面に出会してもすぐに怒りを表明できない人も居る。たじろいでしまう。情緒がグチャグチャになって立ち竦んでしまう。というのだ。

これはとても良く分かる。実は自分もそうなのだ。

確かにお喋りで、なにかのスイッチが入ると、立て板に水でまくし立てることもあるが、たいていの場合はビックリして呆然としてしまう。
それが文章であったとしてもだ。
また同時に、いくらけんか腰だからと言って、この言葉遣いはさすがに、とか、まずそちらが立ってしまうこともある。

もちろん、そうなってしまう人に「言語化しようね」とか「怒りはちゃんと表現しないとダメだ」と言うつもりは毛頭無い。
ただ、世界には、そんな風に、どうしようもなくなって、でも持てあます感情を胸にしまったままにしてしまう人がたくさんいるんだろうなぁということなのだ。

そんな時、どうすれば良いのか。

気の許せる人に吐き出し、聞いて貰ったり、やけ酒(主に自分)などがあるけれど、そういう気持ちに風穴を開けたり、慰撫する事柄はたくんさある。

その1つが芸術であり、物語なのだろう。

最初に話した通り、僕は語り部で、とりわけ民衆に伝わっている名も無き作者(たち)によって作られ、同じく名も無き語り手(たち)によって伝わってきた物語を語っている。

それらの物語は、今と違い、印刷物はもちろんインターネットなど影も形も無かった時代、口づてで伝えられ、洗われ磨かれてきた。
聞き手と語り手がいれば成立する民間芸術である『語り』は、道具もいらず、どんな人でも享受できた娯楽でもあった。

今と同じように日々の生活に追われ、サラサラと雪のように降り積もる不安や不満を、物語は上手に取り込み成立してきた。

5月の森から現れたロビンフッドは、私腹を肥やす悪代官や小狡い宗教家をコテンパンにやっつけ、奪った富を分けてくれる。→欧州版鼠小僧
不慮の死で赤子を亡くした母に、お前の子は妖精たちに攫われたのだ、あちらで生きていると慰める。

上手く言葉にならず、気持ちをグッと飲み込むしかなくて。
それでも後になって、チクショーと思うことのなんと多いことか。

物語を紐解き、目で、耳で、触れる度に、ああ昔も同じ事があったのだなぁと想像する。
妖精に助けて貰った牧夫は、つい欲をかいて、助けられる前よりも貧乏になったり、人魚に恋した水夫は、入水することで恋を成就させる。裏切られても尚想いを捨てることの出来ない水霊の涙は、自分を捨てた騎士を自らの涙で溺れさせてしまう。
彼らは物語の中の存在であるが、別の意味で僕たちでもあるなぁといつも思う。

物語はどれだけの人に寄り添い、その声なき声を聞いてきたのだろうか。

そう思う度に、至らないことの多い僕だけれど、せめて自分の出来ることは行って、物語を語っていこうと思う。

http://www.oberon-kingdom.jp/

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