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【プロ野球選手はかく語りき】堂上直倫、優しすぎたプリンス

 「日本一の夢はかなわなかったけど(中略)ここのどこかで見ている堂上直倫君に夢を託したいと思います」

 それは、2006年のファン感謝デー。
 引退挨拶でマイクを握っていた落合英二は、その結びに、この年ドラフト1位指名された18歳の名を挙げた。話上手の落合らしいファンサービスではあったが、それは紛れもなくドラゴンズファンの総意でもあった。
 堂上直倫。
 高校No.1ショートの名を欲しいままにしていた彼の入団は、まさに希望の光だった。

 堂上とドラゴンズの縁は説明するまでもない。
 父・照は投手として活躍した後、球団寮の寮長を勤め、兄・剛弘は当時外野手として中日に在籍していた。巨人阪神と3球団競合の末に名古屋に来たのも運命の導きというか、当然の帰着というか、竜党は諸手を上げて彼を歓迎した。
 ちなみにこの時、堂上を外した巨人が1位指名したのが坂本勇人だった。制服を着崩し、耳にピアスを空け、人懐っこい笑顔で取材に応じる坂本は、実直な堂上とは何もかも対照的な存在だった。

 神様は、先に坂本に微笑んだ。
 高卒2年目でフルイニング出場を果たすと、翌3年目には打率3割/OPS.800を記録し、不動の中心選手となった。
 一方、堂上が一軍戦力となったのは高卒5年目。怪我で離脱した井端弘和に代わってセカンドを守り、82試合で打率.263と一定の成績を残した。

 しかしその後、堂上は一度として2010年の打率を越える事はなかった。勤勉な練習によって高いユーティリティ性を身に付けた一方、甲子園通算打率.480 / 高校通算55本の打撃力は、ついぞ開花する事はなかった。
 「野球選手としては真面目すぎた」
 とは、福留孝介の談である。様々な指導者からアドバイスされ、自分のフォームを見失う選手は後を絶たないが、彼にもそんな20代があったのかも知れない。あるいはタイロン・ウッズやトニ・ブランコを目にするうちに「自分は長距離打者ではない」と、自分の才能に蓋をしたのかも知れない。いずれにせよ、堂上はそのキャリアの大半を、内野のバックアッププレーヤーとして過ごした。

 「あの時、名前を出してくれたのに、夢を託してくれたのに、結果を出せなくてすいませんでした」

 引退を目前に控えた2023年秋、堂上は落合英二にこう伝えた。高卒で17年もプレーしたのだから、失敗だったと言われる筋合いはどこにもない。しかし彼に注がれた期待値を思えば、誰よりも彼自身が、自分の残した数字に納得がいっていなかった。

 そして迎えた引退の日。
 舞台は、台風による試合中止の影響で、急遽秋口に追加された主催試合。それは奇しくも坂本を擁するジャイアンツ戦だった。右打者最年少2000本安打を達成して球史に名を残した坂本も、このシーズンの途中から三塁手に転向している。彼もまた、寄る年波との戦いの中にいた。

 最終打席、堂上の放った打球は三遊間に飛んだ。三塁・坂本のグラブの下を抜け、レフト前ヒット。しかし一塁ベース上の堂上は含みのある笑みを浮かべていた。
 ──本当は捕れただろう?
 坂本は極めて自然な形で、あと一歩届かない"演技"をしてみせた。もちろん坂本に訊けば否定するだろう。しかし堂上にはわかっていた。この色男は最後に自分に花を持たせてくれたのだと。そしてこういう器用さといじらしさこそ、坂本にあって自分にないものだと。

 「17年間、結果としては後悔はあるが、練習と試合前の準備は何ひとつ後悔していません」

 引退の会見で、堂上は言い切った。
 配られた手札で戦わなければならないのが人生だとすれば、堂上には最善を尽くしたという自負があった。

 2024年、堂上は内野守備走塁コーチに就任する。
 内野4ポジションを準備した経験も、名球会選手と比べられた悔しさも、スキャンダルとは無縁の篤実な人柄も、堂上にあって坂本にないものだ。持ち前のストイックさと優しさで、きっと次代のレギュラーを育ててくれる事だろう。
 そしていつか、坂本監督率いるジャイアンツと、堂上監督率いるドラゴンズが合見える時が来れば、その時こそ声高らかに「堂上坂本論争」を語らせてもらいたい。いつぞや託された夢を叶えるチャンスは、今後の人生にいくらでも転がっている。

 「ライバルは堂上くん」

 18歳の秋、坂本勇人は確かにそう言った。
 物語はまだ終わっていない。
 優しすぎたプリンスの本舞台は、この先にあると信じている。

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